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昭和虞美人草

文学座公演

鳴門市民劇場11月例会
 2025年11月22日(土)
 感想集


鳴門例会カーテンコール

1970年代を舞台にした今回のお芝居は登場人物が卒業後の進路に(恋愛も含めて)懸命にむきあっている姿がよく表現されていて内容も非常にわかりやすく、いい舞台だったと思う。なかでも藤尾さんが自由奔放でこんな風に生きられたら人生楽しいだろうなと思わせてくれた。俳優さんの衣装も70年代らしく、男性のロングヘアー、すそ広がりのパンツ、等とてもなつかしく観ました。「そいつはロックじゃないぜ」ロックってなに?漠然としていてわかりづらい。「一本筋が通っている事」と私は解釈したが、これって正解?

『昭和虞美人草』を見て、最初わかりにくかったのですが、見ているうちにおもしろくなって、どうなるんだろうかとワクワクしながら見てました。

漱石の『虞美人草』?むつかしいんじゃない?としり込みして足を運びました。ところが幕が上がると、私は舞台に引き込まれてしまいました。
 3時間はあっという間でした。そしてさらにハッピーエンドはとってもよかった。

最近の中で最も良かったものの一つだと思う。
 まず使われた音楽が良かった。なつかしいブリティッシュロックのナンバーをはじめ、挿入されるフォークソングもなかなか良かった。“ロック”の魂が人間らしさや本気で生きることの象徴になっている点もロックファンならずとも共感できる。ユーモアをまぶし、長いながら十分楽しめた。

藤尾役の鹿野さんの女優魂に驚きました。インタビューの時のイメージとは考えられない程の役柄、見事にその役をこなし強い女性を見せてくれました。
 「ロックだぜ!」と言う意味もわかりました。どの時代も自分の心に正直に生きることが大切ですね。
 流石、文学座。志津子役の赤司さんの着物姿とても素敵でした。

若者は、いつの世も自由でいいですネ。なかなか正直に自分の気持ちのままに生きるのは難しいです。
 様々なことがふりかかるけど、何が大切か!を教えてくれたそんなお芝居だった様に思います。

1973年といえば、私が大学に入った時です。なつかしい歌や笑いが冒頭から出てきて入りやすかったです。漱石の『虞美人草』のなかみを知らないのが残念です。
 「ロックじゃないぜ」「ロックだぜ」というのが印象に残りました。

私はバッチリあの世代です。
 パンタロン、はきましたよ。でもスカートはミニスカートだったはず。
 あと、お母さんだけ草履を家の中ではいてたのは何故?

何十年かぶりに、純文学作品を読んだ(観た)思いで2時間45分を楽しんだ。
 私も80有余年まじめに生きてきたつもりだが、ただただ時に流され世に流され生きてきたように思う。けっしてロックではなかったな、と痛感させられてしまった。

人柄や心の動きが、ことばや仕草で表現されていてよかったです。何気なくクスッと笑えるようなところもあり、リラックスできました。

主役が誰だかわからなくなってきましたが、最後まで楽しく観られました。襟を正すときと聞いてコロナを思い出しました。苦しい時を乗り越えるには日頃から自分の気持ちに正直に生きることで、軸のぶれない強さを培うことが大切だと考えさせられました。

虞美人草(ヒナゲシ)の花言葉は、「思いやり」「いたわり」「慰め」「恋の予感」「陽気でやさしい」。原作で、漱石が、なぜこの題名を付けたのかは、知らない。
 しかし、『昭和虞美人草』では、その花言葉の意が「配役」の随所に現れていると感じた。
 良かったのは、原作とは違い、藤尾が死なずに、宗近との未来を予感させた点。
 各役者さんの熱演に、拍手です。

ザ・サベージ「いつまでもいつまでも」で始まり、ビートルズ「レイン」、そして頻出セリフ、「オールニージューラァブ」。
 いやーぁ、思い出したぞ!
 50年以上前、高1の文化祭、流行の洋楽をリクエストするとそのレコードをかけてくれる暗幕の部屋があった。同級生(当時からビートルズ狂)がその場を仕切っていて、事前打合わせ通り僕が指名され、かけてもらった曲、レッド・ツェッペリンのホールロッタラブ(胸いっぱいの愛を)、リードギターのジミー・ページの強烈なディストーションのリフがうなる。
 この舞台、セリフはもちろん演出全てが自分の高校、大学時代の状況を反映していて、なんだか恥ずかしさをも覚えてしまった。
 「ロックじゃないぜ、まじめに!」というセリフが、本気の初恋の、将来にわたる重さ。 わかるわー。
 ああ、エピタフの編集に携わりたかったなあ!
 そうそう、もっともっと劇中で(ハード)ロック、聞きたかった。
 でも文学座、さすが。


(しょう)正直に言うと、今回の劇は何が言いたい?何がしたい?何を伝えたい?と、前半は全くわからず、頭を抱えてしまった。これは夏目漱石の『虞美人草』を読んでいないせいか?
(わ)若者の起こす悲喜こもごものドラマ、それくらいはわかった。「お父さん、今日の劇、面白い?私、わからないんだけど。」と休憩に入るやいなや、隣に座る夫にこぼしていた。
(ぐ)具体的には、主要な登場人物たちがたばこを吸いながら演技をする様子が嫌だったんだと思う。火を付ける動作も吸いながらセリフを吐く様も決まっていたので、役者さん達には何の文句もない。それがロックということなのか?私には理解しかねた。
(び)微妙だったのは編集室に掲げられた欽吾の父親の肖像画。舞台の暗転の際にうっすらと照明があたり、暗闇に浮かび上がる。あれは何だったのか、未だに私の中では謎だ。
(じん)人物描写では女性3名の描かれ方が面白かった。誰にも好ましいのが糸子。素直で陽気でかわいかった。次に、おとなしく控えめで慎ましい、それでいてしっかり者の小夜子。最後に藤尾。いかにもええとこのお嬢様で気位が高くわがまま。三人三様で、それが絶妙に絡み合いストーリーを面白くしていた。甲野家のお手伝いの光江の描かれ方も良かった。天真爛漫で愛嬌があり、出てくる度にそのしぐさがかわいかった。お陰で、私のどんよりとした気分が徐々に晴れていった。
(そ)「そいつはロックじゃないぜ」。この劇の中でとても重要な一場面でのセリフ。小野が自分の心に蓋をし、間違った選択をしようとしていたときに宗近が発した言葉である。どう表現すればいいのかわからないけれど、ロックのロックたる何かを感じたセリフであった。ロックと言えば、激しいリズムでうるさい(ロックの好きな皆様、ごめんなさい)という印象しかなかった私にはとても新鮮に聞こえた。普段は遊び人風の宗近が言ったのがまた良かった。小野が最後に自分の気持ちに覚醒した場面では、藤尾には申し訳ないが、私もホッと胸をなで下ろすことができた。
(う)上手い使い方だなあと感心したのが舞台の後ろ中央にあるドア。あそこから出入りする人物がそれ以降の物語をどんどん面白くしていったように思う。サイドではなく中央後方のドアがよかった。セットはずっと同じなのに、ドアが開く度に新鮮な空気が入ってくる、それと同時に新しい展開が起こる、いい塩梅だった。舞台の転換の仕方って、実にいろいろなんだなあと感心した。
 次回は運営担当を担う一月。舞台裏見学や役者さんとのインタビュー、舞台挨拶など、当番月でないと味わえない、「観劇」以外の「感激」をたくさん味わいたい。今月の担当サークルの皆さん、お世話になりました。

『昭和虞美人草』、面白いいい作品でした。夏目漱石の『虞美人草』から時代の流れを感じました
 自分の気持ちに正直に生きることが、幸せに繋がるということがよく分かりました。
 結局 キャスト皆が自分の思いに気づき思いを叶えるべく道に向かって生きていくのでしょう。後味の良いエンドでした。

物語はあまり好みでなかったので、「藤尾さん」に触れてみようと思います。人として良いのか悪いのか分かりませんが、私は結構好きなタイプです。「自分にないもの」への憧れと言った方がいいかも知れません。
 自信家で行動力もあり、お金持ちでその上美人……、敵なしですね、実に羨ましい。
 今まで出会ったことのない人なので、そこに魅力を感じました。

初っ端から辛辣な批評で大変申し訳ないのですが、今回の観劇は「期待外れ」という一言で片付くものでした。というのも、事前に貰ったチラシの「あらすじ」に「マニアックなロック雑誌エピタフを刊行」云々との記載があり(余談ですが、私が学生の頃に購読していたのは「MUSIC LIFE (ミュージックライフ)」です。ちなみに、当時の雑誌は今でも手元に持っております)、そこの「ロック」との言葉にいつになく私が反応して喰い付いていたからなのです。ただ、これでは読者の皆様方には何のことやらお分かりにならないかと思いますので、さらに詳細に説明したいと思います。上述のように「ロック」との言葉に反応した私は、無類の洋楽ロック好きおやじでして、ヘヴィメタルおたくの自称「ヘビメタおやじ(爺)」なんですよ!ですから、役者がセリフで「そいつはロックじゃないぜ」と一喝する場面があったのですが、私も同様に「それはロックじゃないぜ!」と思わざるを得ませんでした(笑)。劇中では、おそらく「自分の気持ちに正直に生きる」=「ロック」との意味合いなのかと思うのですが、ロックの精神的な意味合いのひとつとして「権力や既存の体制に安易に与しない反骨精神」が挙げられるかと思います。一方、それと相反するかのように、学生から社会人になった舞台上の商社マンが、世間とはこういうもんだという風に割り切って上手く同調して生きるさまも、「自身のやるべきことを追及して己の思う人生を生きる」という観点からすると、ある意味「ロック」なのかもしれないと、私のロックに対する認識への揺らぎを僅かながらも感じ取ったのも事実です。このように、劇中での「ロック」という言葉から私が感じ取ったのは、この程度であったとの理由から、冒頭の「期待外れ」との辛評となった次第です。つまり、私個人の期待感としては、劇全体で「ロック」して欲しかったというのが本音なのですよね。
 また、別の視点から本劇を眺めてみると、私が思うには今回の劇での「テーマ」あるいは「メッセージ」は一体何なのかと考えてみたところ、幾ら考えを巡らせても舞台の上にはその一片の欠片も見出せませんでした。これは、勝手な憶測ですが「劇としてのテーマが無いのがテーマ」なのか、はたまた「敢えて意図的にメッセージ性を無くした劇」なのかと、思わざるを得ませんでした。つまりは、劇中ではこれといった盛り上がりも無く、一観客として舞台を眺める私に思索を促すメッセージも何も感じ取ることが出来ず、何一つ収穫が無いままに二時間超の劇が幕を閉じてしまったのも、「期待外れ」との評価に帰結した理由の一つです。
 ということで、残念ながら本劇に対する私の感想をこれ以上述べることは不可能なのが現状です。 そこで、前期高齢者をとうに過ぎて「高齢者」の仲間入りを果たしている私ですが、精神的には若い頃の「ロック魂」を忘れていませんので、私の大好きな洋楽ロックについてご紹介したいと思います(本劇への直接の感想からは外れますが、この作品を観たことによって湧き出てきた想いです!)。
 先に私は洋楽ロックが大好きと申し上げましたが、その中でも80年代洋楽ロックが一番のお気に入りなのです!劇中では、ビートルズやローリング・ストーンズをはじめ、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、キングクリムゾン、そしてピンク・フロイド等々の主に70年代を代表するバンド名がセリフに上がっていましたが、私にとっては何と言っても80年代なんですよ!というわけで、私の「80年代洋楽ロック選:独断と偏見で選んだ私の80’s Best10」をご紹介したいと思います。 まず第10位として、AOR (Adult-Oriented Rock)の旗手として名高い「Robbie Dupree」です。続いて、第9位には二組のバンドが挙げられ、「INXS」と「Eurythmics」です。次の第8位にも二つのバンドが名を連ね、UKメタルの「UFO」とLAメタルの「Y&T」です。第7位には北欧メタルの「HIM」がイチオシです!第6位は、「Steely Dan」を選出しました。そして、第5位は「The Fixx」で、続く第4位は「Spandau Ballet」で決まりです!第3位は、ヘヴィメタル界の重鎮の「AC/DC」です!そして、第2位は「A Flock Of Seagulls」のスペイシーな音色がGoodです!それでは、栄えある第1位には、名曲「Sultans of Swing」で私の心が鷲づかみにされた「Dire Straits」です!!!!
 とまぁ、長々とうんちくを垂れましたが、帰りの車ではカーナビに入力している私の洋楽ロックコレクションライブラリーから大好きなバンドの曲を聴きながら家路につきました。
 てなことで、これでおしまい。

鳴門例会カーテンコール

The Beatles、Led ZeppeIin、The Rolling Stones、Deep Purple??等…懐かしいミュージシャンの名前が次々と飛び出し、自分の青春時代の良い思い出が鮮明に甦りました。
 劇を観ながら、また時折流れる音楽を聴きながら、「過去への時間旅行」を楽しんでいました。

今回の“昭和虞美人草”は、漱石の“虞美人草”に登場する人物とは、そのバックグラウンドが違うだけで、名はそのまま同じ
 で、同じようなストーリー展開になっているのにびっくり。 筋立てとしては昼ドラみたいだけど…、まぁ人物/表現が生き生きとしているのがいいかぁ…。
 “虞美人草”から心理描写を省いて、ひとの動き/表情/セリフだけを抜き出しても、それはその時代/年頃の男女の日常になるだろうし、芝居/映像化したらこの上なく陳腐なもの(昼ドラ)になってしまいそう。そう考えてみると、この“昭和…”の男女7人の物語は作家も演出者も大変だったのだろう。舞台の方は、歳のせいで聞き取り辛いためなのか、それともストーリー故なのか、集中することもできず、これまでの中で最悪の部類なのかとウンザリとしていたが、(中休み前後の)中盤から一気に面白くなって、後半には思わずのめり込んで、妙に納得してしまっていた。
 登場人物の設定は(漱石のそれとほぼ同じだが…)、その相関を含めてなかなかに凝っている。 小野と宗近のふたりの男を天秤にかけて(宗近の嫁になる気はなく、小野に固執していたが)彼らの狼狽ぶりを楽しむ虚栄心の強い“美貌の藤尾”、世間とは距離を置いて家督相続を放棄している“兄の欽吾”、口では欽吾(継子)の身を案じている“藤尾の実の母親(志津子)”は藤尾とその夫が亡夫の遺産を全て相続するものと考えている。また、藤尾は“クレオパトラの自死”について独自の解釈で小野の心を誑かし/誑し込んでいる。“恩師の愛娘(小夜子)”と婚約の口約束を交わしていたが、自分を頼って京都から上京した彼女(小夜子)と、藤尾への恋慕を抱えて、義理と人情の板挟みで苦しんでいた“小野”。それに、快活で剛毅な性格で、隠棲している欽吾の身を案じ、しっかり者の“妹(糸子)”をもつ“宗近”。
 藤尾をめぐる、周りの男達の心の動き/描写がなんとも言えない。 今も昔も男女間の機微は変わらないものなのですね。それにしても小野の優柔不断はいかがなものか…、“人の心は本人にもままならない微妙なものだ”と言うことなのか…。人は、心の向かう所は自分で決められるものだと思っているが、実はそうではなくて外部的な状況/偶然によって自分でも思わぬ行動をしてしまうことがある。 そして、その結果としての悲喜劇が起こる。
 舞台に登場の人物の複雑な関係を分かりやすく説明/念押しをしてくれたのは“お手伝い(光江)”だったのか…、“宗近の妹(糸子)”だったのか…、ともかくどうなっているのかに混乱しているのであろう観客への配慮、演出者の心配り/見事さに感心…。(注釈のナレーター役の彼女)
 “虞美人草”には漢語的描写が多くでてきて、相当の漢文の教養がないと読めないし(漱石の作品はほとんど手に取っていないが)、今の人が読んでも楽しめるものなのかどうか…。 それを楽しめるようにと、人物像は(如何にもその時代の)ステレオタイプで、設定されたシチュエーションもまた同様に。また、半世紀前の当時/昭和の上流、中流階級に生きる人々を、同じ時代を経験した我々/私には鼻につくほどデフォルメした表現/方法で脚色し、演じている。
 それはそれで、ストーリー展開の判り易さには繋がってはいた。(小説のような絵空事の印象をも引き出すからか…) それから、何かの都合で連載が打ち切りになってしまった様な、最後の急展開には付いて行けなくて置いていかれた。これまで漱石のそれを長々となぞってきたのが、漱石それと全くかけ離れた結末が用意されていて、内容も俗なもので、終わり方も、突然の取って付けたようなハッピイエンド。“藤尾の自死”でなくて/狂言…、ハァ?という感じ。 劇中のところどころで、クレオパトラの自死についての考え方を披露する藤尾の台詞で、自身の自死をほのめかし/暗示していたので(漱石のそれでは、小野が家庭教師として藤尾の相手をしているのは、シェイクスピアの“アントニーとクレオパトラ”の英文読解だから)その暗喩的な意味に気づくような演出で/気づいてもいたし、この部分は物語の締めくくりに至る転機でもあるので…。 それに加えて、死の床に眠る藤尾の枕元に、彼女を美しく葬送するため、思いつく限りの“美しいもの”たちが並べられ、その中でも、その象徴的なアイテムとして、虞美人草(芥子)花図の屏風があり…。 その虞美人草には、項羽(秦の武将)の愛人虞妃(虞美人―中国三大美人の一人)が自死して葬られた墓に雛芥子の赤い花が咲く様になったことから、この別名を持つ様になったと言う逸話もある。つまり“虞美人草”というタイトルは、藤尾の運命を暗喩し、クレオパトラ、虞、そして藤尾は、男を翻弄し/翻弄された人物としても暗喩し/されている…。
 勘のいい人にはわかるのでしょう…。タイトルの“昭和虞美人草 ”の肝/源の“虞美人草”はいったいどこに跳んで行ってしまったのでしょうか…。この点がとてもとても残念でならない。
 この〆方が故に、漱石の“虞美人草”の表面的筋立てのみを踏襲しただけの、陳腐な昼ドラになってしまったように…(万人受けする、ハッピイエンドではあるが)。肝の肝が抜けてしまって…。

役者さんたちがとても真面目にまっすぐ取り組まれているお芝居だなあと思いました。私がセリフ回しに慣れないからだと思いますが、最初はセリフの意味をとるのが難しく、少し退屈な展開に思えました。しかし、だんだんと個々の役者さんの魅力とセリフの面白さが伝わってきて、教訓的な面もあって感動しました。

痛快ですごく面白かったです!藤尾さんがとにかく魅力的で、卑怯なことしていても憎めない、何だかんだで一番不器用で、目が離せない感じが好き!と思いながら見ていたので、最後の宗近にズキューンと撃ち抜かれましたね。よいパートナーになると思います!

夏目漱石の『虞美人草』は読んでいませんが、それに近いストーリーなんでしょうかね?
 最初の方では、この劇の終着点は何処なんだろとすごく不思議な感じがしました。
 ストーリーを知らない劇は全て終着点を知らない訳ですが、他の劇ではそうは思わなかったけれど、この劇に関してはその思いを強く持ちました。
 終わってみたら終着点はここだったのか?と思ってみたり、いやここも終着点ではないような気がするし、お芝居とはそういうものなのか?など考えてしまいました。
 お芝居としては、軽妙な台詞の掛け合いが面白かった気がしました。志津子さん(大吾の妻、欽吾の継母)役の方が、すごく役柄にピッタリな気がしてすごいな〜と感じました。

時代によって考え方や生き方や、そして人との付き合い方って、きっと大きく違うのだろうと思う。特に、感受性強く、何もかもが成長過程にある若者にとってはその時代の社会の影響って大きいのだろうなあ…、若者にとって「どんな生き方がかっこいいか」というのが、その違いの際たるものかもしれないなあ…、そういうことを今思っている。
 恥ずかしながら漱石の『虞美人草』を読んでいないので比較する資格はないのだが、小説では、時代は明治末期。そして今回の舞台は1973年、高度成長期が終わろうとしている時期だ。時代が大きく変わって「これから…!」を夢見る資格がある若者がロマンを語る、そして…やがて現実に翻弄され、良い意味でもそうではなくても「大人」になっていく。そんなところは時を超えて同じなのかどうか。劇の前半で宗近や欽吾が語る「世の中を良くしたいんだ!」は、なんだか(すでに「大人」になってしまった私には)こっぱずかしいけどかっこいいじゃない!?と思えたし、劇の後半で宗近が小野につかみかかって言う「そいつはロックじゃないぜ」も何かしびれる言葉だった。
 翻り。今の時代はどうなんだろうとふと思う。自分も含めて(私はすでに若くはないけど!)どこか、最初から分かったフリで、大人なフリで、結局は様々なことをおとなしく受け入れすぎてはいないか?気もちだけでも、いろんなことに「抗う」って、もしかして時代や、そして個々人の年齢・世代に関わらず、大事なことなんじゃないか?そんなことを、観劇後に思った。
 なぜだか「男の子同士の友情」に憧れるところがある。女子同士だって同じなのかもしれないけど、自分的には、すごく仲良くても仲良いだけに気を遣いすぎて、彼らのように、ときにズカズカと相手の中に入ってモノを言うなんてことがほとんどない。そういう意味で、羨ましいような気持ちに襲われた「青春群像劇」だった。 小説ではとことん傲慢な悪女として最後は自死を遂げてしまう藤尾をあんな風に実は脆くてある意味とても魅力的な女性に描いたのはマキノノゾミさんの今回の手腕のひとつと聴いた。そこも含めて、原作を尊重しながらも、全体的に温かく明るく…素敵な舞台に仕上げられていたことが天晴れだった。

何とも説明しにくいのですが、仲間同士だからこそ通じる終盤の『ロックじゃない』のセリフが生き方そのものを表現していて印象的でした。

鳴門例会カーテンコール

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