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「ハーヴェイ」

俳優座劇場プロデュース公演

鳴門市民劇場2019年5月20日例会 感想集


鳴門例会カーテンコール

アメリカが舞台とあって、やはりゴージャスで華やかな装置であり、明るい楽しいタッチでした!!どこの国や時代にあっても人生の様々な問題や個人差、etc。テーマがあって・・・
 生きる私達がふと立ち止まって目先を変えてみようとすると課題が・・・
 やはり、今回も学ぶことの多い例会でした。私もいつか“ハーヴェイ”の様な今まで見たことのない、かわいいリスの様な動物のバージョンアップを見てみたい!!“夢見る可愛いおばあちゃん”になりたいなぁ!

大人には見えないけれど子供には見える・・
 けれどもそんな子供も大人になると忘れて覚えていない。
 本当に純粋な子供のような心を持った人にしか見えないものがあるのかもしれません。
 何とも不思議な物語でしたが、いくつになっても純粋な心を忘れないでいたいものですね。

今回の例会はブロードウェイで4年間というロングラン作品で楽しみにしていました。エルウッドがずっと弁舌しているという、巨大うさぎ“ハーヴェイ”が最初は“?”なぞでしたが、良かったです。あっという間に終わった感で最後はエルウッドが注射されずにほっとしました。ひやひやしながら観ていましたので。
 今回は、いつも一緒に観劇している先輩が徳島で観られたり、お休みの方がいたりで1人での観劇でした。雨、風の強い日でしたが、送迎も近所の方がしてくださって大変助かりました。皆様の助けがあっての私です。ありがとうございます。

「ハーヴェイ」をみて、人と違うことを個性にして受け入れられる社会であればよいと思いました。「ハーヴェイ」は実際にいると思います。

すれちがいや思い込み、決めつけで独善的になる人間のこわさとおろかさを見ました。良かれと思ってやっている治療がマイナスに働く(運転手のセリフ)ところは、文明や技術・知識といったものを皮肉っているように思えました。「目に見えないものを見る」という現代人の失いつつあるものを、想像力をたくましくして、考えながら観ました。ストレートに伝わってこないもどかしさはありましたが、考えさせられる作品で、ファンタジーも時にはいいですね。

私にもハーヴェイが欲しいと思います。

(入会して2年ですが)今まで見た作品のなかで一番良かった。見えないものが存在するということで、想像力をかきたてられた。

とてもおもしろい作品で、ブロードウェイでロングラン上演される理由も分かると思った。

いろんなことを考えさせてくれる内容だった。エルウッドのように純粋で、思いやりにあふれた人柄をうらやましく、見習いたいなと思いました。

正直言って、見終わっても何が何だかよくわかりませんでした。帰宅してパンフを読んで、やっと“ハーヴェイ”の意味が分かりました。
 僕らはハーヴェイを必要としている。同感です。
 そうそう、うさぎ娘の登場は可愛く効果的でした。

心が老化したのだろうか、感激、感動が少なかった。ストーリーに入り込めなかった。観劇後、台本を読んでみたが、やはり理解が難しかった。

高齢者の私達にはどうしても翻訳物が胸にずしりと入ってきにくい感じがする。物語の筋や趣旨を汲み取るために神経を使い、観ていて疲れる。

第一幕からキラキラと意欲的で、次に何が起こるか、どうなっていくのか最後まで話の筋に引き込まれました。いろんなタイプの人間が出てくるのが面白かった。世俗的セッカチ人間、我が道を行くのんびり人間。人の好き嫌い、誤解、情報の入れ違い、様々な人間模様の中で、目に見えないハーヴェイとお人好しのエルウッドを中心に引き起こす大騒動。人にとって大事なものが何かを感じさせる舞台であった。
 特に後半のドンデン返しが面白く、とぼけた風采のタクシー運転手の話も説得力があった。何はともあれエルウッドがハーヴェイを見られなくなる注射を打たれなくて本当に良かった。最後にヴェイタがエルウッドを守り一緒に出ていくシーンは家族愛か!悟りの人間愛か!ほのぼのとした安心感を持たせてくれた。

ハーヴェイが見えるようになりたい!
と思った私は、きっとあの医者と一緒で、欲にまみれた人間で、ハーヴェイを見ることはないんだろうなぁ~と思わされました。
 一瞬でどこの国でも、どこの場所にでも連れていってくれる!その部分に心動かされたのですが、エルウッドにはそのような欲もないからハーヴェイが見えるのですね。
 でも、エルウッドのような生き方を認めてくれる人は少ないのも現実。多くの人と別の考え、行動、意見をいう人は変わった人。でも、私達が持っている価値観も国が違い、文化が違えば、まったく反対の意味を持ったりもする。エルウッドは、他の人には変わった人。でも、他の誰よりも優しい心と素直さを持った稀有な人。そこに気づき、そのままのエルウッドでいてほしいと思ったお姉ちゃんのように、現代の世の中でも人を否定するのではなく、個人を受け止め個性を重視できる世の中に少しでもなったらいいですね。ね、ハーヴェイ、そう思わない?

謎が…いくつも残りました。カラっとサラっと見とけばよかったのかもしれないけど、登場人物一人ひとりの言動を思い出すと「どういう意味だったのか(言動の裏に隠されていることは…?)」がどんどん気になりはじめて…。そして周囲と話すと、また皆さん、いろんな解釈がある!ことも分かってきました。ハーヴェイの存在自体が…果たして何なのか、それだけでも楽しい議論が交わせそうです。
 エルウッドとハーヴェイの「友情」にはホンワカ心が温まるところが多く、エルウッドの上品で綺麗な台詞回しはこちらにもその清廉さが伝わってくるような気持ちにさせてくれるところがあり(自分を異端扱いしている姉なのに、ことあるごとに、また最後に治療の注射を受けるかどうかのときにも「お姉さんの望むようにしたい」という意味のことを言っていたエルウッドの心ってどれだけ純なの!!?)、全体的にはキャッチどおり‟ファンタジー“だったのかもしれません。でも他方では、時代とはいえ「ほか(一般的な人)とは違う人」や「いわゆる精神病を患う人」を差別して排除しようとする人間の利己的で冷酷な局面がひとつの軸・背景になっていて、笑いの奥に問題提起や闇が潜んでいる、実は怖い劇だったのかなとも(考え過ぎかな)。
 結論的には、こんな風にさまざまな引き出しがあるという意味で、とても面白い、広がりがある作品だなあと思いました。「ブロードウェイで初演以来4年間のロングランを達成」「1945年ピュリッツァー賞を受賞」という偉業が分かる気がしました。
 あ、「ハーヴェイの存在自体が…果たして何なのか?」について…。私は「ハーヴェイ」は、もしかして誰のそばにもいる「もうひとりの自分」ではないかな、と思いました。

鳴門例会カーテンコール

すごく面白く、楽しめました。
 「ハーヴェイ」愛すべき大きなウサギちゃん。みんなを右往左往させて、もう可笑しくて! ラストは私が思ったとおりでした。昔(内容はほとんど覚えていませんが)絵本で白いとてつもない大きなウサギのお話をみたような…(原作の時代を考えると…何か関連があるおとぎ話だったのでしょうかね)。そんなことも思い出しながら楽しめました。

各役者さんのリアクションが強くてストーリーにどっぷり入りにくかったです・・・(自分の脳が疲れているからだとは思いますが)。純粋な心・気持ちをずっと持つことの大切さを感じることができました。

周りの家族を不幸にしながら、幻覚の見える悲しい男の人の話かと思いながら観ていました。 設定も大きな白兎を親友だと誰にでも吹聴するなど奇想天外、ホラーなのかミステリーなのか。 少しずつ話が進むにつれ、彼のキュートな喋り方にほのぼのした気持ちが生まれ、まさかのファンタジーとは。見えないものが見える=素敵な個性です。お姉さんの貴方じゃなくなるのは嫌だという弟への受容に感動すら覚えました。お芝居の終わりには私にもハーヴェイが見えたような気がします。

「人として本当に大切な物は何だろう?」、「何が正常で何が異常なのだろう?」と考えさせられる舞台でした。
 最後の場面、タクシーの運転手の精神病院へ行く時と帰るときで人が変わるということ。病院で「正常」な状態になった人間の方が狂暴で、世間からは「異常」だといわれている人の方が「優しく人間味があふれている」という発言には「はっ」とさせられました。
 大多数が正常(=正しい)と思っている事が必ずしもそうではないということを念頭におきつつ、本質を見失わない人間でありたいと思います。

今回の劇は難しかった。エルウッドには「ハーヴェイ」が見えている。ハーヴェイと友達になると未来のこともわかり、何かと特典が多いようだ。何より人生がとても楽しそうだ。
 途中まではエルウッドにしか見えない空想上のうさぎだと思っていたが、人によっては見えることもあるらしい。エルウッドは少年のような純粋な心を持っているので見えたのだろうと思っていたが、姉のヴェイタとエルウッドを治療しようとした精神科医も見えたのは何故なのか。益々わからなくなった。
 分かりやすい劇もあれば分かりにくい劇もある。分かりにくい劇がつまらないというわけではない。いろいろな意見が出てきてそんな観方もあったのかと驚かされることが多い。
 この劇では精神病も描かれている。現代ではこころの病として理解されるようになってきたが、舞台は1950年代のアメリカ、日本でも患者に対する偏見が多かった時代。患者を乱暴に取り扱う職員がいても不思議ではないが、少し違和感があった。タクシー運転手がこの病院に入る前と出てきた後では患者は別人となってしまうと言っていた。エルウッドも治療されそうになったが、姉が最後に考えを変えたことで、治療は止められた。
 ハーヴェイが見えることは病気ではない。むしろハーヴェイが隣にいてくれる方が人生は楽しくなるのでは、とも思った。でも「大きなうさぎ」私にはいらないか…。

この物語は理解しにくく難しかったです。又、登場人物の名前が長くてわかりにくかった。
 最後になって、やっと純粋な人間らしい生き方をしているエルウッド・P・ダウドのような人と接していけたら素晴らしいだろうなと思いました。

大きな白ウサギが、人間の心の奥底に眠っていた純粋な感情を引き出してくれる、そんな優しい気持ちになれる舞台だった。最初は、『ハーヴェイ』?どこにいるの?という疑問ばかり浮かんでいた。しかし、先の展開が読めない中で、いつ『ハーヴェイ』が現れるのか、だんだんと心待ちにしている自分がいた。そして、舞台が終わる頃には、本来見えるはずのない『ハーヴェイ』が、見えたような気がした。もしかしたら、『ハーヴェイ』のような存在が、すでにとなりにいて、私たちを守ってくれているのかもしれない…。

エルウッドにしか見えず、彼の幻想だと思っていた巨大ウサギ「ハーヴェイ」が、実は姉ヴェイタにも時々見えていたり、また、話の後半にはチャムリー院長にも見えていて、「ハーヴェイ」を我がものにしようと画策したり、話が進むにつれて「ハーヴェイ」の存在を感じさせる楽しい舞台でした。そういえば、マートルとウィルソン看護師やサンダーソン医師とケリー看護師がちょっといい感じになったりしたのも「ハーヴェイ」の仕業だったのでしょうか。でも、一番のキーパーソンは終盤に登場したタクシー運転手。病院に連れてくるときに元気でやさしかった患者が注射1本で、連れ帰るときには別人のようになってしまうことを嘆き悲しみ、その言葉に心動かされたヴェイタが今のままのエルウッドを受け入れるシーンは感動的でした。

演劇の世界には、観念的な芝居と現実的なお芝居がある。
 ハーヴェイは現実的なストーリーだけれども、観念的な要素も多分に感じられた。
 頭で理解するよりも、心を自由にして、感性を楽しむお芝居だったと言えるかもしれない。
 ハーヴェイが見える主人公を精神疾患と捉える家族、医師達、されど客席が彼をそう感じたら  
 このお芝居は成り立たない。紳士で、優しくて、自由であり、素敵に演じておられた。流石だと思った。敵対した人間関係が目に見えないハーヴェイ(世間体、権威、臆病風、その他諸々の雑音を取り払ったピュアーな概念)の存在により、和解し、前向きに生きる結末に安堵した。happyな気持ちになれた。
 役者さん達の演技は皆様素晴らしく、安心してみて居られた。役者を目指して大成される人はほんの一握り。夜飲みながら、演劇界の厳しさに思いを馳せ、ほろ苦く感じた。決してウィスキーのせいだけでは無かったであろう。

このお芝居は観る前からハーヴェイという見えないものが登場人物にいるということが分かって観ていました。でも、中で演じている方の大半が見えてない…。
 今回私は、鳴門で観て2回目は徳島で観ました。どうして2回目を観ようとしたかというと、1回目はどうしても自分でハーヴェィを舞台の中に見よう見ようとして観てしまい、また台詞一つ一つを聞き逃さないように必死になって観てしまいました。また観た場所も客席下手端で、視野の中の3分の1が下手ドア裏という、残念な場所で、また舞台を縦横無尽に走り回るアクションが小さく感じる場所で観てしまいました。おもしろかった意見を聞いて、客席センターで観たい!!と思い、2回目を客席最後方ではありましたが、センターで観ました。おもしろかった~!!台詞もすんなり耳に入り、そして、息の合ったリアクションもよくて、「あ、これこれ私の観たかった『ハーヴェイ』は!」と。お芝居の最後にエルウッドの言葉にほっこりして終われました。あぁこれなんだ、このお芝居の感じてほしいところは。
 生の舞台って本当に不思議ですよね。だから、ひとりひとり感じることが違って当たり前なんですよね。ひとりひとり違って当たり前なんですよ(^o^)
 それにしても、客席を飛び回る光のうさぎマジックはファンタジー!!

今回のお芝居、誰がまともなのか、最後までよくわからなかった⁇です。全く先が読めなくて、なんとか話についていくのがやっとでした。
 ちょっと難しかった…です。

時間を感じない楽しい劇でした。場面転換の様子や時間経過などのプラカードも面白かった。靴下を脱いだ足の指が全開でパー、後ろの席からもよく見えた。エルウッドはハーヴェイという変わらない心を持ち、周りの誰に対しても優しく穏やかに接する。そういうところは自分も見習いたいと思った。

ハーヴェイの姿が見えるエルウッドは精神病なのか、それともその周りの人間がおかしいのか。エルウッドはとても温厚、誠実で、上品ささえ感じる実に嫌味のない性格に見え、ある意味「憧れ」に近い感情を抱いた。世界中が彼の様な人間ばかりだったら、この世に戦争や収奪はありえないだろうと想像できる。世界中のみんなの前にハーヴェイが現れたらいいのにな。

「ハーヴェイ」は、いかがでしたか?
 私には、タクシー運転手がキーマンのように感じました。
 彼の登場で、物事というか、舞台が正常(?)に動き出したと感じました。
 第1幕は、「アメリカ流のドタバタ喜劇か!?」と、隣に新会員を迎えて、一緒に観劇していたこともあり、初めての観劇がこれでは!とヒヤヒヤ・ドキドキでした (^_^;;
 2幕目のタクシー・ドライバーの登場で、やっと腑に落ちました。今回は、事前の資料・台本の読み込みもなく、自然体で観ました。こんな観劇も、スリルがあっていいな~♪
 個人的には、ハーヴェイの意思で姿を見せたり、見せなくしたりするのだと思います。

今、高校2年でバカ真っ盛りの息子がまだかわいいところも残していた3歳のころ、彼には子狐が見えていた。よく彼の小さな掌の子狐を一緒に、「かわいいね~」って撫でていた。もちろん私には見えない。でも、我が子が掌の子狐を撫でながら「ほら子狐君がいるよ、かわいいね~」って言うんですもの。親としては一緒に撫でるしかないでしょ。一緒に撫でながら、でも、自分にもいたよなそういう奴、って思ってたと同時に精神のあり方も遺伝するのか、しんどいねって。
 で、そのころに読んだ絵本が西原理恵子さんの「いけちゃんとぼく」。すごく腑に落ちた、我が息子にとっての「いけちゃん」が子狐なんだ、私にとっての奴は名前無いけど、もしかしたら「いけちゃん」だったんだねって。
 って頃を今回の劇で思い出した。でも、エルウッドのハーヴェイは「いけちゃん」とは違うのかな?大人になっても消えないんだから。「いけちゃん」の正体は西原さんの絵本では示されているんだけど、エルウッドのハーヴェイは成人しても消えない。「ハーヴェイ」は「いけちゃん」ではないのか?いや多分、「ハーヴェイ」も「いけちゃん」なんだよ。たぶん、エルウッドの「いけちゃん=ハーヴェイ」は消えるタイミングを失ったんだ、そして周りの人にも影響を及ぼした。それは、「ハーヴェイ=いけちゃん」を忘れるなってことなんだろう。「いけちゃん=ハーヴェイ」は消えない。忘れてはいけないんだ。

鳴門例会カーテンコール

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