ホーム > これまでの例会 > 片づけたい女たち > 感想集

片づけたい女たち

グループ る・ばる

鳴門市民劇場2014年3月27日例会 感想集

例会の紹介はこちら

鳴門例会カーテンコール

グループ る・ばる の大変楽しいお芝居でした。見事なまでにゴミを散らかした舞台からのスタートで、どうなるのかな?と興味津々。最後まで吸い込まれるように観ました。三人の楽しいお喋りの内容も盛り沢山。ツンコさんの私生活、三人の病気の話、学生時代の同窓生の現在、自分たちの過去、そしてツンコさんの前課長との関わり等。そして、会話の中心は、(今の私たち)団塊の世代と同じ話題もおしゃべりの中にちりばめられており、身近に感じました。ところで、題名の「片づけたい」のは何なのか?考えながら観ていました。私は、ゴミの山がテーマではないと思います。三人の女性の人生を暗に指していると思います。人生の中で片づける事柄は多岐に渡り有るわけで、その処理を間違えると大変なことに発展します。最後の場面で傍観者になったゆえの後悔等が表現されるストーリーで、私達に悔いることのない人生を歩む必要を説いたようなお芝居でした。コミカルな会話の中に重いテーマを含んでいるお芝居と思いました。

今回初めて観させて頂きました。
  大変楽しい時間を過ごさせて頂き、入会してよかったと思います。
  次回も是非参加させて頂きます。

男女で感想が異なりました。
  何かしら一度は「そー言えば、あるある!!」とうなずける箇所があり、片づけたくても片づけられなかった事が誰にでもあるのだなぁと思いました。
  女三人の息の合った掛け合いに見とれました。
  男性にとっては女三人寄ればこんな話をしているのかと思ったようです。

日常どこにでもある井戸端会議の話題を、実に面白く、軽妙なタッチで楽しみました。「片づけたいのに、片付けられない」心の暗夜行路を満タンにかかえた今の社会(否私自身かも)の矛盾をつくづく考えさせられました。ここからどのようにして光を見つけ出せるのか。それは人とつながっていく、心の結びつきかな、自分のことを気にかけて心配してくれる友達がそばに居る。外に干された布団を心配してくれる人が居る、世の中捨てたもんじゃないよね。こんなことを考えながら観劇しました。
  残念なことに声が聞き取れにくく、セリフが早口でよくわからなかったのが心残りです。

女性が三人寄れば、いつでもできる会話に心から共感し、腹の底から笑えました。

(1)4〜5年前だったか、NHKで「デスパレートな妻たち」というアメリカコメディがあり、今回の題名からそんな波乱万丈コメディを想像したが、予想は全く外れた。最初のゴミの山の片付けこそデスパレートな雰囲気で進んだが、途中から仲良し50 才、元気な女性三人の心のもやもやを浮かび上がらせた。ところどころ共感ができるこれまでの人生の努力と悔い、互いに相手を尊重し、又自分の人生を確認する。熟年三人女性の長い夜の片付けとおしゃべりの宵であった。
(2)「片づけられない……」はこれまでの人生で最後まで結論づけられず、心のもやもやを先送りする現代世相。加えて衝動やストレス解消のために不要なものまで買って部屋中をごみ山にする現代病の一部。心の奥に抱える未解決のもやもやは多種。飛び飛びの会話だったので、観客にも内容は漠然としか解らなかったが、突込んで追求しないところが、明るくコメディタッチで鑑賞できた。
(3)また、三人共非常に滑舌で、セリフがハキハキしていて自立した女性達として好感が持てた。筋書きは明確ではなかったが、三人の女達の友情と気遣いが一貫していて、身近な演劇として面白く、後味よく見られたと思う。
  閉演後の交流会に立ち会ったが、よくテレビで見る女優さん達故、人気があり、「はぐれ刑事純情派」などのイメージと合せ、今回の劇にも一層親しみが湧いた。

おもしろくて笑ってばかりで、三人芝居ですが時間があっという間にすぎて、まだ見たい気持ちになりました! すごく良かったです。又、笑える芝居が見たいですね!

松金よね子さんの名前を見た時、これは絶対観なければと楽しみにしていました
  ツンコ役の岡本麗さんの雰囲気が味があってとても良かったです。
  私もなかなか片づけられなくて自分の部屋はよく似た状態になっています。少し整理しなければと身にしみました。自分の事となれば笑えないです。反省しています。
  良く似た年代で私達の日常生活や会話がにじみ出ているようでおもしろく楽しかったです。

自分にも思い当たる、「片づけ」を面白おかしく、その裏に人生の悲喜こもごもを加えたドラマを、三人のベテラン女優さんが見せてくれました。非常にテンポ良く、お三方のキャラクターが良く生かされており、ロビー交流会でのお姿も、芝居のまんまでした。何てこと無さそうな都会の一コマなのでしょうが、それなりに重そうなメッセージもありながら、非常に楽しく見ることができました。

「片づけられてないでしょ、それで良いんですよ、また集まって片づけていこうとなったでしょ、それが良いんですよ。」と岡本麗さんが言ってましたが、ひとつひとつクリアしていけば良しとも、そう私も思います。愚痴を言い合う友がいることは幸せだと思います。

演劇は本当にすごいものでした!
  ステージを変更せず、さらに三人しかいないというのに本当に二時間も話が続けられるものかと思っておりましたが、気がつけば、演劇が終わっていた程に聞きいってました。三人のオバチャンのインパクトはすごいものでしたね。笑いを織り交ぜつつ、三者三様に課題が垣間見え、自分も頑張っていこうと元気がもらえた気がします。
  演技も、脚本も、本当に素晴らしかったです。

おもしろかった!

大半の人の大半の人生はたわいない悩みごとやちっぽけな幸せだけのかたまりだ。でも、渦中にあると大きなことに思えたりするし、実際に普遍的モンダイに繋がっていたりすることも…ある。舞台は自分と同世代(の設定)の女子三人の、とある(ありえない設定だけど)一夜、ほんの数時間のお話でしたが、そんなエピソードがギュッと詰まっていて、そしてテンポよく展開されて、自分もその場にいてもおかしくないような不思議な共感に包まれながら二時間足らずの時間を飽きることなく過ごしました。
  芸達者な女優さん三人の、ナマでいってる?と思えるくらいの演技は素直に笑って楽しめるもの、でも、それだけでは終わらず、実は現代社会や現代社会に生きるひとたちの課題を鋭く突いているような、ドキリとする台詞(たとえば「傍観者になるな」とか…)もあって、ああ、やっぱり単なるドタバタではなく「永井愛作品だ!」と思いました。
  個人的には「(言いたいことを)ためちゃう」方なので、ほかの二人から「言いなよ、吐き出さないと“たまる”よ〜」と言われていたおチョビさんに近いかなあとか、三人のうち私は誰だろうというアソビ心を持ちながら楽しむこともできました。

私は片づけたいけど、なかなか片づけられないツンコに似ているなぁと思って楽しみながら観劇させてもらいました。

「こうなってしまったのには、訳があるのよ…」
  この舞台のパンフレットに書かれたこの言葉に、私はどんなミステリーが、深い話が巻きおこるのだろうと、楽しみにして劇当日を迎えました。
  始まってみたら、どうでしょう?ツンコはのらりくらりと言い訳をして核心に触れようとしません。往年の三人娘たちは、昔話と現代の悩みを語り合いながら(しかもゴミに埋もれながら!)、決してドラマチックではない、しかし誰にでもあり得る悩みを吐き出していくことになります。けれどこれが――おもしろい!そもそも私たちの悩みだって、他の人から見たらなんでもないようなことがゴミ部屋のように積み重なって、それがほんの小さなこと(鍵を無くしたバツミのような)をきっかけに吹き出してしまうものではないでしょうか?この舞台は、自然な会話の中で三人の性格、関係性、そして人生を感じさせてくれるから、彼女たちの悩みをよりいっそう身近に感じるのでしょう。
  実は今、こんなことで悩んでいてね?と最終的に口にする、そのもっと奥に心の闇はあります。今回のツンコの場合は、学生時代に耳にしてこびりついていた「傍観者」という言葉、そしてかつての友人にした、今となっては無責任ともとれるアドバイス。
  それを今でも行ってしまう自分自身でした。
  最後のオチに示されたように、多くの人は考えて煮詰まっているだけなのでしょう。部屋と心を整理して、前を向いて生きていくしかありません。
  しかし私は、脳内のなんとかっていう物質が出ていないタイプの人間ですので、部屋や机を片付けるのには苦労するばかりです。オチョビのてきぱきさが羨ましい!

事前に、台本を読んでいた。シンプルなストーリーだ。どこに谷、山があるの?その意味で、今回はいい裏切りだった。
  台本は、あくまで骨だ。演出と舞台、そして、役者がその芝居の機微を創る。そのことを、今回、改めて実感する。観ていくらの世界だ。
  そして、改めて「演出」を見る。永井愛さんの名前が!
  「日常の些末な出来事が、実は、国家の在り方、根幹にまで繋がっているんだよ」と彼女の警句が聞こえてきそうだ。尖閣しかり、竹島しかり。
  それにしても、衣裳にも、本にも、全て番号が振られ、その順番に片づけたり、ソファに投げていた。その情報を、道具入れと片付けをした方から聴く。三女優と作者に脱帽だ。息のあった彼女たちの演技をまた観たい。ぜひまたよんで呼んでいただきたい。どうもありがとうございました。

鳴門例会カーテンコール

役者さんがやはりベテランだなと思いました。安心して観ていられる感じがしました。
  (ちょっと上から目線でしょうか(笑い)) また、劇中人物の年齢が自分に近いせいか、せりふに共感できる部分が多々あり、このくらいの歳になると、こういうものなんだなと妙に納得した次第です。
  話は変わりますが、この演劇は、舞台設営が非常に大変なのではないかと心配?してしまいました。物(ゴミ)であふれていましたからね。毎回同じ用にセッティングできるのでしょうか?同じようにセッティングしないと、役者さんの動作にも影響しますよね。同じようにセッティングするためには、詳細な仕様書?のようなものがあるのでしょうかね。
  役者さんが、交流会のときに、このお芝居は、片づけの練習というのが余分に入りましたとかおっしゃっていたと思いますが、それから考えても、ゴミも毎回同じようにセッティングするのでしょうね!裏方様に頭が下がります。
  またまた話は変わりますが、舞台上での声のとおりについて思うことがありました。今回の方が前回(ロミオとジュリエット)よりも、声のとおりがよかったように思いますが、おそらくそれは、舞台装置に大きく影響されるのではないかと思いました。
  ロミオとジュリエットでは、舞台装置がそれぞれ単独で立っているような感じで、舞台の空間としては開放的だったと思います。よって、声を反響させるものがあまりなく、声のとおりがやや悪いのではないかと思います。一方、今回の演劇では、舞台装置が客席に向かって舞台をかこむ壁のように設置されていたので、それが反響板となって、声がとおりやすかったのではないかと思います。
  それ以外に、セリフの長さ、熟練度による違いもあるとは思いますが。
  そんなことを考えながら観ていたら、アッという間に終わってしまいました。

17歳の時の友達、それが50代であんなに素の自分をしゃべり合える。まずそのことに関心を持ちました。というよりも、うらやましく思いました。テーマよりも何よりもそこです。男ではそこまでするだろうか、と考えずにはいられませんでした。。

大変おもしろく共感を覚えながら観ることができました。
  幕が開いた時、部屋のちらかり様にびっくりしましたが、会場のみなさんも同じ気持ちだったようでおどろきの声があがりました。片づけの動作をともないながら次々と展開される台詞はなかなか今風でテンポもよく私たちの感情を代弁してくれているように思いました。女三人での展開がよかったと思います。

幕が上がった瞬間、足の踏み場もないほどのゴミの山、あの膨大なゴミの山、準備と片付けの大変さが頭をよぎった。いったいどうなっていくのだろうか。そんな心配もよそに舞台の進行と共に身も心も同様にもののみごとに片づいていった。
  “片づけたい女たち”、「女性の視点でよりリアリティある等身大の舞台を目指し、同時代の応援歌でありたい」という意図で企画されたとのこと、さすがである。これ程までに現在、過去、未来…と自分にオーバーラップし、しかも納得のいく舞台は初めてである。
  誰にも視線を向けられていないのに、悩けない、まるで自分のことのようにはずかしく赤面したり、“なるほど”とおおいに共感したり舞台にくぎ付けになった。
  ゴミの袋に囲まれてはいないが思い切って捨てられないものは山ほどある。他人にはただのゴミかも知れないが、当人にとっては“ゴミたち”は人生そのもの、むしろ宝の山かも知れない、楽しい思い出、いろいろな思い出、きれいさっぱりとぬぐい去りたい心のゴミなどさまざまである。
  又、人は誰にも言えない問題を一つや二つはかかえている。
  親友の一歩踏み込んだ会話や行動力で、今まで気付くことのなかった、お互いの「心の闇」を垣間みることができる…と確信した。ありがたいことに私には本当にたくさんの友人がいる、その中には信頼し少々遠慮がちなところはあるけれど心から親友といえる人がいる。もしお互いに気付いていない「心の闇」があるとしたらそれは“遠慮”という“怪物”かもしれない。
  主人にしてみれば私は「片づけられない症候群のくせ者」である。当人は片づけているつもりでも増える物が多すぎて常に飽和状態を維持し続けている。ここらで一区切り、何もかもすっきり片付けたいとは思うのだが…世の中、そんなに甘くない。
  突然の異変に気づき、あわてて確認するもあとの祭り、大切な書類は灰となり茫然自失…そんなことは日常茶飯事の出来事、わが家で“ゴミといっしょに片づけたい女”と思われていること疑う余地なし、この場におよんではゴミと思わせない技を一刻も早く身につけること…と反省しきり。(相手はまれにみる片付け魔です)
  楽しい例会ありがとうございました!

自分も一緒になって片づけたいくらい、すごいボリュームのゴミ山に圧倒されました。女性三人がとても個性豊かにそれぞれの生き方をしていましたが、オチョビ、バツミはいつもツンコを心配してあげていて、加えて歳を重ねると共に衰えていく事、面倒くさくなってしまう事がなんとなく共通していて、昔からの付き合いってこんな感じだろうなと観ていて和みました。作品内では解決していない問題もたくさんありましたが、一緒に少しずつ片付けたり、放り投げたりして歳を取っていって欲しいなと思いました。

幕が開いたらいきなりゴミの山で驚いた。そのゴミの山は少しずつ片付いて行くのだが、その時の会話で女三人の人生も垣間見える。女性ではないからかあまり共感は得られなかったが、会話はテンポよく、笑いも随所に散りばめられ楽しめた。特に車のキーを失くしたくだりは一番笑えた。何故ゴミの山になったのかという理由も最後にはわかり、ただの喜劇ではなかったのもよかった。ただ、あのゴミは片付けられたのではなく、勝手に分類されベランダに移動されただけで、結局、自分が欲しいものはどこにあるのか分からず、あの後が大変だと思った。

最初はよくセリフが覚えられるなぁなどと考えたりしていましたが、だんだんと話が面白くなってきて、最後まで楽しく観させていただきました。
  今回の話しはあまり難しいことは考えずに、笑ってみられて良かったです。
  松金よね子さんだけはみたことあった(火サス?)のですが、やっぱり一番面白かったです。
  初めて観劇して、次回も楽しみになりました!!

「片づけたい女たち」という題名を聞いた時TVで有名な女優さん達の何を片づけるのかしらと考えたりしました。
  舞台が始まった時沢山の「ゴミの山」を見て一瞬息をのみました。そして「はっ」と思いました。「ゴミの山」の中に考えさせられる問題の山がありました。
  片づけても片づけても最後まで片付かなかった事に簡単には答えの出ない問題である事として理解しました。
  ふっと吹きだしたり、声を出して笑ったりしながら、ずしんと心にひびく会話にうなづいたりしたことを思い返しています。
  ありがとうございました。

息のあった演技で時間のたつのも早くわれわれ世代の物語で、嫁姑問題だとかリアルな言葉(セリフ)も有り楽しく見る事が出来ました。

女優さん達がみんなキュートで、ノリが良くて、素敵でした。嫁姑問題や、プチ整形問題や、昇進の悩みなど、年齢とともに悩みは変わっても、仲良しの女性三人が集まれば、いくつになっても変わらないなぁと思いました。

今回登場の三人の女優さんよりはるかに年令が上の私、まさしく「片づけられない女」そのものの生活をしているので、カーテンが上がってゴミの山のツンコの部屋の様子、状態に「ワタシもそう…」と共感した。オチョビが片づけているのも「物」をその場から移動しているだけ「ワタシもそう…」と。
  片づけられないのはなぜか、何をどう片づけていけばいいのか、人の生き方や世相も映して考えさせられた。
  ロビー交流会の役者さんの声、マイクを通すとよけい聞きづらい、きたえた声量の方々なのでマイクなしでも声は通ると思うが……。

運営サークル当番だったので、当然ながら、前の席でよく見え、よく聞こえた。舞台装置も久しぶりに見応えのあるものだった。
  三人の女優さんのテンポのよいやりとりがおもしろかった。 「片づける」の意味もいろいろ考えさせられた。
  片づけながら逆に荷物がふえるという経験も思い出した。
  うんうんこんなこともある、あると思う場面がたくさんあった。
  テレビなどで知っている女優さんが見られたのもうれしいことだった。

三人のトークがとにかく楽しかったです。
  片づけのテンポも軽快で、あっという間の二時間でした。

日常生活の中での会話はふつう忘れてしまうことが多い。部分的に覚えていても内容がつながらないのがあたりまえのことである。「片づけたい女たち」で出演した三人(岡本麗、松金よね子、田岡美也子、」は場面の変化はないが、あれだけの台詞をみごとにこなし、一寸のすき間もなく演じられたことに敬服しました。
  「る・ばる」の三人の今後ますます「片づけたい女たち」の演技の発展を期待している。

まず、ゴミ屋敷の舞台に驚きました。
  たくさんの荷物で大変だったことでしょう。
  それに加えて三人の役者さんの演技のすばらしさにも感動しました。
  休憩なしの1時間45分間、集中して楽しませていただきました。
  同年代の私にとっては、自分と重ね合わせ感慨深い場面もありました。

鳴門例会カーテンコール
鳴門例会カーテンコール写真は劇団の許可を得て鳴門市民劇場Webページ作成委員が撮影しています。

E-mailでのお問い合わせは、         鳴門市民劇場ホームページ
nrt-geki@mc.pikara.ne.jp
まで。