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夜の来訪者

俳優座劇場プロデュース公演

鳴門市民劇場7月例会
 2025年97月24日(水)
 感想集


鳴門例会カーテンコール

110分休憩なしで、舞台に引き付けられました。そして最後に何度も「エヘー」と声を上げました。また、犯人さがしをする自分の愚かさに笑ってしまいました。心して生きなければと思った。

最後、凝っていると思った。展開がいろいろあり楽しめた。

夜の来訪者である、あの影山警部とはいったい何者?次から次へと不思議がいっぱい残る。
 影山の「人間は一人では生きていけない。ひとつの家族だけでは生きていけないのです。」という言葉が心に留まらなかった。倉持家の両親と娘の婚約者、この人達へのおしおきが結末に待っていたんだ!
 役者さんたちが上手!

今回もいいお芝居をありがとうございました。
 舞台の様子から、どうなっていくのかと期待させられました。俳優さんたちの演技力の高さが目立って素晴らしかったです。ただ、内容は時々突っ込みたくなるところがあり、私とは感覚の違いもありました。でもそれがあの時代の上流家庭、家族の感覚なのかなあとも思いました。

一言、おもしろかった!
 人間のエゴが、あぶりだされていく皮肉のきいたおもしろさがよかった。

やっぱり俳優座劇場プロデュースは最高です。影山警部の鋭い追い込み口調もかっこいいですが、なんといっても当主を演じる柴田さんがおもしろすぎる! 警部のまねも笑わずにいられなかったし、もう何かしゃべるだけでくすっと笑っちゃいます。
 ストーリーも大好きな謎解き&どんでんがえし‼ また見たいです‼ パンフレット買いました。

人それぞれ観劇の楽しみ方はあると思うが、私のスタイルは、サークル代表者会で頂いている例会ニュースに書かれているあらすじを読んでストーリーを頭に入れた後、観劇し会場に販売されている劇団のパンフレットを購入し、改めて俳優さんのプロフィール等を読み返しながら舞台の余韻に浸るといった「二度おいしい」スタイルである。今回のパンフレットの最後のページに、興味深い事が書かれている。
 1991年7月の初演から2025年12月まで、なんと358ステージといった事が記載されている。時代とともに舞台づくりも進化をとげ、現代に合うようにスタイルを変えていった、という演出家の方の話も納得がいく。今回の舞台はミステリーといったらいいのか?私達にむけての警告と言ったらいいのか?とてもメッセージ性の強い、ハテナマークがいくつもつくような舞台だった。一番の疑問は、倉持家に現れたナゾの警部は一体何者だったのか?という事だ。本物の警部?にせ者?はたまた、この世の者?あ・・・ 分からない。
 ある女性の死に倉持家の全員が何かしら関わっているという事も実際ではあり得ない事だ。私の頭の中は、幸せな倉持家に警部が訪れ、不穏な空気が漂う倉持家が無限ループのようにぐるぐる回っている。サークルのメンバーと話し合ったが、最後まで警部が何者なのか、答えは出せないままだ。 人は生きていくうえで、誰かと繋がっている。決してひとりでは生きてはゆけない。何らかの罪を犯し、時には取り返しのつかない過ちを犯すかもしれない。人間とは何か?人間の愚かさにスポットを当てた、とても考えさせられる舞台だったように思う。

もう1回観てみたいと思いました。
 徐々に謎が解けていく展開はなかなかすっきり感がありました。
 ただ最後の謎は解けないままで気になります。あの警部は、いったい誰なのか?
 事件が起こる前から事件の話をしている訳ですから…人間ではない?亡霊?自殺した女性の怨霊?などと考えていると背筋が寒くなってきました。
 皆さまどのようにお感じなのか、皆さまの感想が楽しみです。

作品の評価には色々な方法があると思うが「観劇後にどれだけ話題になるか?」もひとつの基準ではないだろうか。特に新劇の場合は、観た人に何か「お土産」(いい意味で、心にひっかかるもの)をプレゼントできることが値打ちだと私は感じているので、そのものさしからは、本作は過去に演劇鑑賞会の例会で観てきた幾多の作品の中でも極めて上位に入る。こんなにも、皆を「人と話したくさせた」劇はあまり記憶にない。
 内容は、どちらかといえばそんなに複雑でもないし(むしろ、単純!)、大上段から問いかけてくる壮大なテーマがあるわけでもない。サラッと観る場合、どちらかといえばエンターテイメント性が勝る作品かなとも思うので、軽く楽しみたい人にもそれなりの満足感があったはず。
 「しかし!」である。観てから何日も経っているのに、まだ、心の中のたくさんの疑問符にはスッキリとした解決の糸口がない。そればかりかどんどん謎は絡まって、そして、推理と想像は行ったり来たり…。さらに他人と話すとまた、その自分の推理がゼロ地点に戻ったりひっくり返ったり。まことに楽しい作業が続いている。トリックを暴いていく面白さがあるわけではないのに、なぜにこうも高揚感がかきたてられるのか?
 ひとつには、メインに据えられる謎「影山警部は一体誰だったのか?」について、おそらくいくつかはヒントが隠されてはいたのだと思うものの結局は(謎を解くには)どれも「寸止め」的で、それがために、ひとによって「推理・想像」が果てしなくバラバラになったという面白さ!謎を最高潮に持っていったラストへの流れは本当に良くできていたと思う。また(ひとつ目にも関係するが)もうひとつの謎「死んだと言われていた女、本当に死んでいたのか?」については、色々な人の(全くバラバラな)「推理・想像」を聴くにつけ、その人の個性や人生観が映るなあと感じ、面白い。「ひとりの女の死」そしてその死の原因の追究に関わらざるをえなくなった倉持家の人々が、次第に、それまでかぶっていた仮面がはがされて互いに疑心暗鬼になり、信頼関係が、家庭が、崩壊していくわけだが、観た人が語る感想の振れ幅は、登場人物のどこに自分の考え方や生き方を寄せているか?が影響している(無意識に、誰かの立場に立っている)ように感じ、興味深いのである。
 そう考えていくと、この作品の凄さは、まあ普通には普通の人が体験することなどありえない話なのに、観る人を、知らず知らずのうちに舞台にひきずりこんで考えさせるところにあるのかもしれない。
 しかし、原点に戻り、原作者(イギリス:J・B・プリーストリィ)の残した言葉「人間というものは、どんな他人にもなんらかの責任があり、その環境から脱出できる人はいない」(似たようなことが謎の「影山警部」の口からも劇中最も印象的な台詞として発せられる)がやはり本作のすべてであるとも思う。観客は、無意識のうちに(謎解きをしているつもりの中で)そして、観た後で他人と話す中で、この考えへと導かれるようにできているのかもしれない。だとすると、本当によく仕込まれた構成の芝居である。 なお、私個人の感想としては…。多くの謎解きゲームのようなものに引きずられてそれはそれで楽しかったけども、何周かまわって、やはり、原作者や劇を創った人からのメッセージを素直に受け止めたいと思うに至った。つまり、世の中の事象はすべて「連帯責任」(←影山警部の台詞として出てきた)で起こっていること、どんな人も(たいていは無意識だと思うが)差別意識や優越感によって誰かを傷つけたり、傷つけるまではいかずともその人の生活や人生に大小の影響を与えていることを、せめて時々は思い起こしておかないといけないということ…を観た人みなが感じ取れていればいいなと思う。いや「そうしないといけない」ではなくて、そういう自覚を皆が持っていれば、よりよい世界になるという希望を持ちたいと思った。 本作は何度も再演を重ねており、もちろん前作の数々を実際には観ていないので比較にはならないものの、今回のキャスティングは、まさにどの役者さんもはまり役に思えて大いに楽しめた。皆さんの演技にうならされ、心から拍手を送った。

真相を暴く刑事や探偵がいないと言う、とても不思議なミステリーだった。
 何気ないちょっとした関わりで他人の運命を変えてしまい、そして命までも奪ってしまう……心理的に追い詰められていくゾクゾクする劇で、次々とその先の場面を想像してしまった。
 実は、彼女は生きていて、自分の人生を狂わせた人達に復讐しているのではないかと、途中までそう思った。また、警部と彼女が親子(または兄妹)で、自殺した子供(妹)の復讐をしているのではないかとも思ったが、どちらも違っていた。
 自分の中でストーリーを想像しとても楽しめたが、最後に「彼女の死を知らせる電話」そしてなんと!「警察がやって来る」…そんなどんでん返しが待っているとは、予想もしていなかった。
 また物語が始まりそうな感じで、事件解決と言うより「人としての生き方」が問われる劇だった。
 影山警部は、「この世には実在しない人」「幻」と言うのが、私の結論です。
 追記………
 付け加えるならば、あの「最後の電話」こそ、これから始まる「終わることのない彼女の復讐」……そのスタートの合図で、全て彼女によって計画されたものに違いない!!!

私なりに明確なメッセージは受け取れましたから演劇としては成功なのでしょう。しかし、時代設定からくる矛盾する物語の展開や不自然な組み立てが幾度も感じられ、それが最後のオチまでそうではないよなー。と最後まで芝居に没入出来ませんでした。

ミステリーは普段あまり観ることがなく、久しぶりに観て面白く引き込まれました。
 どのようなラストシーンが待っているのか、最後の最後まで目が離せませんでした。
 また、Glassがどのように落ちたのかも、とても気になるところです。
 物語としては解決していないので、スッキリした感はありませんが、「人はひとりでは生きて行けない」と言う言葉と、最後の凍り付いたような終わり方が、とても印象的でした。

とてもおもしろい展開でよかったです!
 が…この日は朝からあっちゃこっちゃと大忙しの日だったのもあって、ところどころキャストが瞬間移動しまして…。
 次の展開になる度にみんながそれぞれ人のせいにしてくれたお陰でストーリーはちゃんと追えたように思うのですが、最後のところはやっぱりハテナが飛び交いますよねぇ。
 そもそも警部が何者なのか。途中まではもしや被害者の父親なのか?とか思いましたが(死んだのか生き別れたのかわかりませんが)。はたまた被害者が死ぬ間際に飛ばした生き霊(姿違うけど)なのか?とか。
 警部は被害者の女性は死んだっていってたけど、最後の感じではさっき死んだみたいな感じだったし。
 とまあこんな感じの話をしながら帰りました。

ミステリーとのことでしたので、ストーリーが分からなくならないようにと一生懸命聞きました。おかげで疲れました。
 内容は倉持家の娘(ミキちゃんの娘?)の婚約祝いの席に、突然現れた警部が倉持家の会社を解雇された女性が自殺したのでその原因を知りたいと言う。その結果、出席していた全員が自殺に関係している事がわかる。
 確かに原因は一つに限らず、複雑に絡んでくるものだと思います。何でもそうですが。その後、あの警部は偽者で、自殺は嘘ではないかと婚約者の男性が言い出し、自殺した病院に電話したところそのような事実はない事がわかる。皆は自殺が嘘である事が分かってほっとする。この後、お祝いの席にいた5人の内、3人は良かった良かったで済ます。後の2人は良かったで済ませず、自分がやってきた事に問題がなかったのかと自問自答する。
 このような内容でしたが、自分ならどうするかと考えてしまいました。
 最後は、病院から電話があり、先ほど、女性が自殺したと伝える。
 この部分は要らないように思いました。

今回の観劇である「夜の来訪者」は、私の所属するサークルの担当例会ということもあり、舞台が始まる前に役者の方々との対面式がありました。劇団側は舞台の上、私達は観客席という立ち位置でしたが、すぐ目の前にこれから始まる演劇の役どころの面々が笑顔で、私達もそれに笑顔で応じて、和やかな雰囲気での対面式でした。私個人としては、このような状況下での対面式は初めてでしたが、緊張の中にも初めてという喜びが湧き上がってきて、とても貴重な時間を得ることが出来たと思いました。そして、その対面式の中で、舞台装置に目をやると、何とも重厚でアンティークな雰囲気に仕上がっていることに、圧倒されるとともに美術担当の方々の制作技量の高さを感じられずにはおられませんでした。そのうえで、特に私が感心したのには大きく二つありました。その一つは、大きな窓ガラスの一枚一枚に経年劣化による汚れを重ねて年輪を経た趣をそのガラスの淵周りに巧く施すことで、歴史ある邸宅を非常に的確に作り上げていたことです。もう一つは、曇りガラスの向こう側にさりげなく桜の花が開花している情景を陰影でもって演出し、今回の舞台設定の奥行きをとてもうまく表現していたことです。ちなみに、この演出から、舞台上の季節が春ということも、私には容易に察しがつきました。そして、そのことでこれから始まる劇中の季節感とともに、その春の空気感をも感じ取ることが出来ました。
 さて、私の悪い癖で前置きが長くなりましたので、このあたりで本題である今回の「夜の来訪者」の感想に入りたいと思います。
 今回の観劇は、私の担当例会ということもあり、事前情報無しで観劇に臨むいつものスタイルの私とは違って、事前に幾ばくかの基本情報が私の中にもインプットされていました。そして、その事前情報の一つに、「最後に大どんでん返しがある」とのことでしたが、それが影山警部から知らされた女性の死が、影山警部の尋問が終わり、彼が姿を消した後に、女性の服毒自殺が実際に起こり得たということだったのでしょう。さらには、影山警部の存在自体が謎のままに包まれて劇の幕が閉じたということなのでしょう。
 そこで、「この影山警部とは、一体何者なのか?」との考えを巡らせました。ですが、そこは何と言ってもお芝居はフィクションですから、荒唐無稽な考えが錯綜しても何ら問題はありません。むしろ、頭の中で自由にあれやこれやと非現実的な思索に耽って、影山警部が何者なのかと色々と想像を膨らませることが、一種の楽しみでもあります。そこで、私が想像したのは、陳腐な答えかも知れませんが、例えば自殺した女性が生前から理不尽な扱いを幾度となく受け、そのことで沸々と湧いていた「怨念の化身」というものです。あるいは、これも突飛な想像なのですが、倉持家の他者を顧みない驕り高ぶった考えを改心させるために天罰を下す者として未来あるいは遠く彼方から使わされた「怨恨からの使者であるターミネーター」かも知れないかと…、私の想像は色んな方向に膨らみました。とまぁ、色々と想像を膨らませてあれこれ考えるのは楽しいのですが、そんなこと(影山警部が一体何者なのか?)は、今回の演劇を観た感想としては、私としてはどうでもいいことなのです(←ちょっと言い過ぎかもしれませんが…)。
 ですから、そんなことよりも、私が今回の劇から得た教訓というか、私自身が常日頃から思いを巡らせている考えを再認識することに繋がったことが、私にとっては非常に意味あるものとして、私の心に残りました。
 まず、セリフにもそれらしい意味合いでしゃべられたかと思いますが、「人は一人では生きてゆけない。互いに影響しあっている」ということです。この「相互に影響しあっている」というセリフから「バタフライエフェクト」という言葉が、私の脳裏に即座に浮かび上がってきました。ご存じの方も多いかと思いますが、この言葉の意味するところは「ごく小さな原因が、後に大きな、そして予測もつかない結果を引き起こす」ということです。つまりは、最初の当主(倉持幸之助)の女性の解雇という理不尽な行為から、その後に連鎖的に引き起こされた数々の不遇・不運や交わりによって、不幸が雪ダルマ式に膨れ上がって、最終的には自死に至るという何ともいたたまれない女性の境遇にこの言葉の重みを感じ取ったのです。
 ところで、今回の劇中では、女性の自死という最悪の事態に至ったわけですが、そんな不幸なことでなくとも、私たちが日々生活してゆく上で、他者との繋がりや影響を受けずには生きてゆけないのは自明の理です。例えば、会社組織での仕事等を考えてみると、ある人物がいくら優秀な頭脳を持っていたとしても、その人物が成し遂げた仕事上での成果が製品化され、さらには一定の基準の品質を保持したうえで継続的に広く人々の役に立つようにしてゆかなければ、その成果には意味がないと私は考えているのです。ですから、一個人の成果に留まっているだけでは無意味であり、世の中に正しく広めてゆくためには、そこには凡庸であっても数多くの人々の協力なしには成し遂げられないのは明白なことかと思います。つまりは、いくら優秀でも一個人で出来ることには程度の差はあっても限界があり、全てをひとりで賄うことは不可能であって、その成果を発展させてゆくためには他者の力を借りない限りにはたかが知れているということです。その他にも、私たちが日々暮らしてゆくためにも、生命にかかわる食料の調達一つをとっても、己一個人の力だけではけっして可能ではないことは、分かりきったことですよね。要するに、個人の自立(存在)は他者からの有形無形(はたまた直接的ないしは間接的)な支え(繋がりや影響)があってこそ成り得ると言えるかと思います。
 ということは、私たち人間は、個々の存在としては他者の支えなしには存在しえないという非常に弱い存在なのです。ですから、そのお互いの弱さをカバーするためにも、利己主義に走らず互いに助け合って良好な関係を構築する間柄にならなくてはならないと思います。つまりは、「共生」かつ「共存共栄」ですね。 しかしながら、いま世界の至る所で、自国あるいは為政者自身の利益のための紛争や戦争などの争いごとが絶えません。地球環境の悪化や、そもそも人類自体が今後も繁栄して存続し続けること自体が危ぶまれている今の時代に、利己主義に陥ってそんなクダラナイ揉め事を起こしている暇なんてないはずです。
 ということで、今回の観劇から「利他の心の大切さ」を改めて再認識した私でした。

私は単純な人間なので、影山を普通に警部だと思い込んでいました。ただ、言われてみればおかしなところばかり。1回では分かり切れないモヤモヤする作品に初めて出会えたような気がします。

倉持家に突然現れた影山という警部、よく通る渋みのある声。結局彼は何者だったのか終わってみても、その余韻が消えません。

とても期待していた作品でして…というのも中学生の時にアガサ・クリスティの小説を全巻読んでてシチュエーションがそっくりだなーと思ってたんですが、そうではなく難しい作品だったなーという…。

ある女性の死に自分が関係しているかも…。娘の紗千子や息子の浩一郎は受け入れがたい思いを抱きつつも、自らの行いを悔い改めようとしているのに対し、父や母、婚約者は頑なに否定し、影山警部という人物が警察署にいないこと、その日に自殺した女性がいないことをわざわざ確かめてまで自分のしたことを正当化した。
 そう、この確かめた時点では自殺した女性はいなかったのは事実だ。病院から自殺した女性に関する電話があったのはこの後なのだから。そうすると、もしこの3人が過去の行いを少しでも反省していたら、自殺する女性は存在しなかったのかもしれないのでは?警部は5人に自身の行動を省みるチャンスを与えに来たのか!?なんて思ったりした。すると警部は何者?人ならざる者?靴を履いていたから幽霊ではないな…とストーリーとは関係のない妄想まで膨らむ(笑)。
 3人は自殺との関係を認めたくないがために病院に確認をし、そのせいで自殺にもかかわらず警察に疑われ、話を聞きに来られることになる。なんとも因果応報ではないか。 悪いことをしたらきちんと謝れる、そんな人間にならないといけないな(反省)。
 なんかうまく言葉にできないのですが…伝わればいいな~と思います。
 色々と想像が膨らむ楽しい劇でした!

忙しい毎日ですが、観れて良かったです。素直に面白かった!

鳴門例会カーテンコール

原作が戯曲ということで、場面は倉持家の一室であったが、全く飽きることなく見続けられた(初めての経験)のは、ストーリー展開と、それぞれ役柄がピッタリだったからでしょう…。 裕福な実業家一家の娘の婚約を祝う席に、現れた警部が「ある貧しい若い娘が自殺をした」ということで始まり、自殺をした女性と実業家一家とのかかわり、それぞれの反応であらわになっていくそれぞれの本性…緊張感で引き込まれ、平凡に生きることの尊さを改めて思い知らされた名作でしたねぇ。そしてラスト/どんでん返しには、アガサ・クリスティも…でしょうね。 ミステリー/スリラー/サスペンス…の仮面を被った作品だが(謎解きを試みると当て外れの)、底に流れているのはヒューマニズムですかねぇ…。
 おもしろい、そのおもしろさはそこが見通せないからだろうか。澄んでいてどこまでも透けているようでありながら、実は暗く淀んでいる。淀みを突き抜ければそこはまた、清い水が流れている。
 …と、そんな埒もないことを思わせる。
 でもね、この俳優座劇場プロデュースの“夜の来訪者”の脚本では、この戯曲の”すべて(底に流れているもの)”だと言ってもいい、原作/映画での“頭とお尻の部分”が割愛・・されていたのは残念…。演出の都合なのか、倉持家の一室だけとの舞台との制限で仕方なかったのかも知れないが、何とか工夫して割愛は避けるべきだったのでないかと(それとも、迂闊にも私が気付かずスルーしてしまったのか。何時の間にか舞台は始まっていて、女中がラジオを…からでしたね)。 
 ある夜の男女が逢瀬をしていて「神を信じる?」「信じる。人間は信じられないけど、何かを信じなきゃ、裂け目から落ちる、永遠に」との・・との“死んだ女性(原作/映画ではエヴァ)”の言葉が、本質のすべてではないのかなぁ。最初と最後で彼女は神を信じると言っているし、自殺する直前にも「神を信じる。…でないと裂け目から落ちてしまう、永遠に…」と言っている。なのに、キリスト教世界においては、自殺は絶対にしてはならないことで、自殺した者は救われず、非常に無慈悲だということを熟知している彼女はどうして自殺を…。 “夜の来訪者”の肝に拘わるところですね。
 (神を信じていた彼女なのに、最後を看取ってくれたのは悪魔だったのは、どうでしょうか…) 警部(現のものでない)は、辛い目に遭い続けたエヴァの唯一の味方のようにも見え、彼女を不憫に思い、救うため、倉持家にやってきて…。 警部が去ってからでも、倉持家の彼ら/彼女らが、直ぐに行動していたら彼女は死なずに済んだかもしれない。彼女が本当に死ぬ/自殺するまでかなり(数時間)の時差があったのだから。それから、間もなく自殺することを知っているのに長々と尋問を続けて時間を浪費した警部は“天使/神”の仮面を被った“悪魔/死神”だったとの解釈が容易にできるので…(原作では“グール警部”で、“ghoul”グールは怪物/幽霊の一種で死肉を喰らう“悪魔”とも言われている/辞書にある)。
 “天使/神=悪魔/死神”は結局“表裏一体”なのでしょうが…。
 “人の世だからこそ、人知を超えた怪事が起こり、人が解き明かせる真相など、ほんの僅かに過ぎない。神を敬い/仏に縋るのは、自分たちが僅かしか知らないものであるからで、微かな提灯の明かりだけを頼りに、闇を歩かねばならないから。そう思えば、畏れ/節度が身の内に滲んでくる…、とは思うが…、一方で、これは納得できないと現代科学の下での理性が、この世にある全ての意味は、日の下に引きずり出せる。どんな奇妙な、奇怪な出来事であっても、必ずそこには人がいる。霊魂のせいでも、物の怪の仕業でもない。まして、神や仏の力ではない。現に見えるもの、聞こえるもの、匂うもの、触れるもの、それだけで何もかもを解き明かせる。”とは、夢のないこと甚だしいことだが…。
 固定された舞台と密室心理劇(ミステリー)で、“12人の怒れる男”(本邦では“…の浮かれる男”、“…の優しい日本人”、手塚治虫の“七色いんこ”などのパロディも…)の雰囲気もあり、お決まりのラストのどんでん返し(さほどではないが)はステレオタイプのにおいがする筋立で…。
 “カラマーゾフの兄弟”化していくのにものには他に何があるだろか…。 “罪と罰”での、老婆殺しの犯人を追及する予審判事や、観る人に後味の悪さを残す「あと1つだけ…、うちのカミさん…、あたしたちはプロ、犯人は所詮素人…」のセリフでお馴染みの“コロンボ警部”も、コロンボのパクリ“古畑任三郎”もこの警部と同じ匂いか…、人類に共通な永遠の悩み(神はいるのか、いるのならなぜ悪が存在するのか)を問題提起している”カラマーゾフの兄弟“も。それに加えて人形劇プーク公演での”死神(落語)“などが想起/連想される…。
 誰かを苦しめ/不幸にした罪は消えずに必ず返ってくる。それが直接でなくても家族にも別の形で返ってくる/回って来る。要は、“人の縁(えにし)は全てつながっていて、行いは因果応報である”ということを言いたかったのかなぁ。それとも“幸運などというものは、吹き抜ける風のように瞬く間に過ぎて、触れることさえできないのに、不幸はいつまでも付いてまわる”とか…。
 “因果応報”という概念は、往々にして悪い行いに対する報いととらわれがちだが、悪が苦を生む悪因悪果も、善が楽を生む善因楽果も、どちらも同じ因果で、そもそも起きた事には善も悪もない。 どんな幸運も悲劇も無色なのだが、着色/意味(因果応報)をもたせるのは人間だけ…。
 雲の切れ間から日がさして、庭が明るくなってきたら「きっとこれからは、良い因果がめぐってくる…」ただ、廻っているだけなのだが、人はただ“結果/現状”に対する理由がほしいだけ…。
 ヒトのクセ(原因帰属)は「風が吹くと桶屋が儲かる」のように、自分や他人が経験した出来事(成功・失敗、善・悪など)を自分や他人の行動の背景にある原因を推測したり判断したり、起こった出来事の原因を何に求める(帰属させる)のか、というような…ものか。
 “自殺(?)の背景/真実を知った倉持家/家族のこれから/人生は決して楽ではない(死ぬまで自分の罪を背負って生きていかなければならない)”というのは、はてさてどうなのでしょうかねぇ。(我々全員が死んだ女性になりうるし、また我々全員が倉持家の人々にもなりうるのだから…。)
 “しゃん”と生きているひとは、どこかで誰かを支えている(本人の気付と無関係に)。逆に、真っ当でないひとは、どうしても他人を傷つけ/不幸せにする。そういう生き物でしょう、ひととは。
 美しく健気、あるいは立派なお話のほとんどは眉唾物で、包み隠さず語れば、そこには卑しさ/あさましさ、おぞましさが滲み出てしまう。人に纏わる真実が美しいだけのハズがないのだから…。
 最初と最後、それに要所、要所で舞台にあった女中役(有田さん)の(公演の最後にキャストが登場して舞台を締め括るカーテンコールというのかな?での)魅力的な笑顔に魅了され、また、ラストで全員が固まった劇的な〆のシーンで(演技/シナリオなのか、それとも私と同年代の体幹/体力/持続力/耐久性によるのか)ゆっくりと/わずかに前後に揺れていた倉持家当主役(柴田さん)に親しみと共感を…。 本当に、最初から最後までどっぷりと浸かって、観劇後の“ふり返り”も加えて“満腹、満腹”の…。

今回は、昭和15年の裕福な家庭に突然起こる事件で、お話が展開していく度、家族みんなが関わっている事が次々と判明して、とても面白いストーリーだと感じました。でも最後は何が真実なのか?ミステリーのまま終わりを告げました。本当は何だったのか?と今は思い返しています。
 それと、出演者の奥様役の山崎美貴さんの着物姿がとても美しくて、仕草もステキでした。

一人の亡くなった女性と家族が何らかの関係があり、来訪者によりそれを家族が知る事になる、というお話でした。
 実人生でもいろんなことが起こり、人とのつながりは大切にしたいと思っているが、人間は誰でも過ちをおかすもので、それが自分の思っている王にはこの世界では解決しないのです、でもわかり合える世界はあると思いたい。

何不自由ない裕福で名声ある家族にある闇を一人の刑事によって家族全員が取り返しのつかない現実に向き合わされる。
 それでも自分は悪くない、仕方ないことだったと言い訳ばかりで正当化しようとする。
 じわじわと追い詰められるシーンがとてもわくわくさせられて面白かったのですが、最後になって、え?あの刑事さんは誰だったのだろう?と。
 そしてまた現実に引き戻されて、なんとも不思議で人間のエゴを出した楽しい?作品でした。

1942年生まれの自分は今で言う朝鮮半島だが、母が大きな川の向こうに…(必要ないね)とても気持ちが世間とつながるよ。
 今回の劇は洒落た空間が何とも言われない立ち位置であったのが良かった。
 婚約指輪から始まって、幸せやったのに、一本の電話から普通の世間になりましたねえ。舞台が変わらない分、夜~夜中になっていたことも気づきませんでしたが。
 警部からの電話は昼頃で、夜中には家を訪問していろいろ話(治安を守るためでしょうね)をされていて、十分に日本中もこんなだった。少ない時代があったのだとも…

2時間近くが一幕という見応えのある作品だったと思う。“関係者”が家族にだんだん広がっていくところまでは、ある意味想定内だったと思うが、婚約者 黒須がそれぞれ別人ではないかと指摘するところが、ある意味“どんでん返し”的な効果をかもしだしている。人の弱さ、醜さをあぶり出すという意味で、面白い作品だった。

とにかく面白かった。謎は一杯あるけど。
 人間の弱いところをぐいぐい押してくるので、ついつい乗せられてしまう。お芝居の中で、人間ながく生きていたら、いろいろ思うところが多かれ少なかれ皆あるんだと思うことができた。

影山はいったい何者だったのか。様々な考えを想い巡らせてある結論にたどりついた。それが合っているのか、間違っているのかは、もはやどうでもよい。観終わった後でこれだけ考え、人と話したくなった「夜の来訪者」は、いい意味で恐るべき作品だった。
 影山警部は常に冷静な話し方で、淡々と倉持家を追い詰めて行く。感情がなく、手を殆ど使わず人間らしさがないので、最初は、倉持家に天罰を下すためにやってきたこの世のものではない神のような存在だと考えていた。しかし、一度だけ大声を出した時があった。自殺した女性を蔑む倉持家の人々に対し、つい感情的になってしまった。その時、影山は神ではなく、生きている人間だと確信した。
 ここからは、感想というより「夜の来訪者」に対する妄想に近い推論である。
 最初に自殺したとされている佐藤かね子(劇には登場していない)の気持ちを考えてみた。倉持工業を不当に解雇され「アカ」という烙印を押されてしまったのがことの始まりである。倉持社長は言動が下品で品格のかけらもなく、戦争を利用して武器で一儲けしようとしている事も彼女の恨みを増幅させたに違いない。 そこで思いついたのが、事業で成功し、幸せの絶頂にある倉持家に対する佐藤かね子の復讐劇というストーリーだった。
 まず、狙ったのが長女沙千子、彼女が行きつけの高級洋装店の「シナノヤ」の店員となった。上得意様なので丁寧に対応はするものの、時に嘲り笑ったかのように振る舞い、さりげなく嫌がらせをした。その美しさゆえ沙千子は嫉妬し、経営者に告げ口をした。2度目の解雇で復讐心はさらに増した。
 その矛先は沙千子の婚約者黒須に向けられた。怪しげなバー「あいまい屋」に出入りしていることを知り、店員となって近づき不幸な女を演じてみせた。たいていの男は幸せ薄そうな美人に弱い。案の定、簡単に引っ掛かってきた。黒須にとってこの恋愛は単なる火遊び、しかし、沙千子には絶対に知られてはいけない。佐藤かね子はそれを承知の上で黒須をもてあそび、相当額を貢がせ、黒須の前から忽然と消えた。この事が露見すれば、黒須と沙千子の関係も完全に終わる。
 次に長男浩一郎が「あいまい屋」に出入りしていることを知り、黒須との関係が終わった後に近づいた。目的は倉持家の財産。純朴で世間知らずの浩一郎に自らの不幸話をしたところ、同情して倉持工業の金を横領して持ってきた。給料の1年分というからかなりの金額だ。このことで不当解雇された倉持社長に対する復讐は果たしたが、まだ完成ではない。
 最後は倉持夫人、倉持ゆきが代表を務める慈善団体へ生活支援の寄付の依頼をしたところ、高慢な彼女は、予想通り正論を並べ「(パートナーの)彼にしっかりしてもらいなさい」と断ってきた。その男が自分の息子とも知らずに。
 こうして倉持一家及び黒須と浅からぬ関係を作った後に、影山にひと役買ってもらうことを依頼した。もちろん彼は警察関係者ではなく、それは劇の中で倉持が署長にかけた電話で証明されている。影山には全ての経緯を伝えてあるので、詳細まで知っているのは当然で、写真も何枚か渡し、必要に応じて使ってもらうように仕組んだ。倉持家に土足で上がり込んだ時も上履きだとしらばくれてはいたが、最初から踏みにじるつもりだったに違いない。そして、徹底的に痛めつけ全員の心の中まで踏み躙って去って行った。影山は完璧なまでに冷酷無比な追い詰め方だったが、一度だけ声を荒げた事があった。感情的にならないようにと一挙手一投足、細心の注意払っていたと思うが、倉持一家のあまりの無神経さに我を忘れてしまった。もし彼が全知全能の神なら取り乱すことなく常に冷静さを保っていたはずだ。
 全てが仕組まれた狂言なので病院に自殺者がいないことや、警察に影山という警部もいないのは当たり前、倉持家を安堵させ喜ばせた後、最後の最後に偽の警察を送り込み恐怖を与えた。一度安心させた後に恐怖に陥れる方がダメージは大きく、これでこの復讐劇は完成した。
 そしてもうひとつ、登場人物の中に共犯者がいた。それは、女中の秋山のり子。「上履きに履き替えました」と言ったが、見たのは彼女だけで嘘を言ったに違いない。最後「警察の方がおみえになりました。お通しします。」と上から目線で言ったのはもはや女中の言葉ではなく、倉持家への恨みを感じた。
 倉持工業と黒須から相当額を貢がせた佐藤かね子に自殺する理由はなく、どこかでしたたかに生きているに違いない。

誰しもが持つ言動の是非。
 それが他人の人生をも変えてしまう危惧。物語を大変楽しみに観劇したにも拘らず、セリフがよく聞き取れず、豪華なセットに目を奪われ、あのソファーはカリモクかな?等と思っている中、警部が一人一人にしか写真を魅せないのは、そういうことだったのかと、やっと理解。でもさらなる展開が。
 それにしても、あの警部は、いったい誰だったの?

今回は、観劇前も後も、楽しませていただきました。ミステリーなれど、面白い設定です。堪能しました。翌朝の、劇団お見送り時に、影山警部役の瀬戸口さんと娘の婚約者役の𦚰田さんから、「この劇は、色々な捉え方がある。皆さんの感想をぜひ聴きたい」とのお話がありました。それで、私の視点と感想を記してみます。
 翻訳劇を観る時の、個人的な覚え書きです。(表-1)

邦題・役名原題・役名考察・感想
題名夜の来訪者an inspector calls「ある警部が訪問する」Specter(幽霊)の隠喩?Callに、尋問する意はなかったかと…
主人公?佐藤かね子
小川ともみ
倉持・・・
Eva Smith
Daisy Renton
Eva:語源はヘブライ語で「命」「生きるもの」、Eveと同意。原作者と同時代を生きたEva Peronを模したのか?愛称Evita:アルゼンチンの片田舎で私生児として生まれ、高級娼婦から大統領夫人にまで上り詰めた。
Smith:英米姓で一番多い、ありふれた名前。原作者の意図を一番感じる。
代理人影山警部 Inspector Goole邦名が、ちと優しい?この姓は、普通にありそう。Goole:クトゥルフ神話に出てきそうな…怪しげで怖い!原作者の命名の苦悩と遊びが感じられる…
加害者1倉持幸之助Arthur Birling倉持は、金持ちの意?名は松下幸之助を類推させる。翻訳(翻案)家の力量の見せどころ。
Arthur:古英語、ウェールズ語(bear-hero,noble)「アーサー王伝説」由来か?
加害者2倉持沙千子Sheila BirlingSheila:アイルランド語の男性名に由来、「目が明るい」。女性を指すスラング
加害者3黒須辰男Gerald Croft原書では貴族階級。Croftの発音から「黒須」としたのか?
Gerald:ゲルマン語由来、「槍の支配者」「槍の力強い者」
加害者4倉持浩一郎Eric BirlingEric:スカンジナビア系、ゲルマン語-ric(government,powerful)
加害者5倉持ゆきSybil BirlingSybil:古代地中海世界で、アポロンの神託を受け取る巫女
女中秋山のり子Edna - The MaidEdna:ヘブライ語由来、「喜び」「快適さ」

舞台装置が立派で豪華。舞台を見ただけで、劇団のスタッフ皆様の劇にかける想いや情熱を感じました。 ストーリーはよく考えられていて、非常に面白く、ドキドキしながら拝見しました。また、何気ない言動が、周りの人の人生に影響することの怖さに気づきました。心に残る劇でした。


(夜)夜という設定が今回のストーリーをよりミステリアスな作品にしていた。
(の)ノーと言えない状況に追い込まれる家族達。最初、自分はこの事件とは全く関わり合いがないと思っていたはずだったが、そうではなかったことを影山警部の質問に応えていくうちに気付かされていく。
(ら)楽天的に考えていた家族がどんどん追い詰められ、事件に思い当たり、自白していく下りは、どの人の時もドキドキのしっぱなしだった。
(い)いやいや、ここに至っても、自分の正当性を主張し、言い訳ばかりを繰り返す世慣れた倉持家の親たちがいたっけ。
(ほ)這々の体でやり過ごし、影山と名乗る警部が去った後、やれやれと胸をなで下ろす家族達。そこに外から戻って来た娘の婚約者の黒須は、今回の事件を別の観点から、実はこうだったのではないか、と持論を展開してみせる。
(う)鵜呑みにした倉持家の親たちは、これで自分たちは今回の事件とは何の関わり合いもなかったのだと思おうとする。
(し)しかし、そうはいかなかった。舞台の最後で、どんでん返し的な結末が・・・!一幕でお芝居が終わるというのは実に迫力があるものだ。特に今回のようなミステリー系の物は、間で幕間があると間延びしてしまうが、その時間がないと、心臓のバクバクはずっと続いたまんまで途切れることがない。更に更にと怖い物見たさ的な感情が湧き、舞台が終わるまで、息をするのも絶え絶えだ。最初、夫はトイレの心配をしていたが、ずっと見入っていて、トイレどころではなかったようだ。
(や)役者とはすごいものですね。当たり前ですが、自分の役を見事に演じきられます。毎回、どの作品を見ても、私自身はすぐに騙されるし、納得させられるし、感動をしてしまいます。役者さん達の一言一言が私の脳裏を巡り、自分なりの解釈をし、納得をして怖がったり面白がったりしています。幸せな空間ですね、観劇って。家族や友達、知り合いと共にその空間を共有し、後から感想を言い合ったりして再度、劇を楽しむことが出来ています。これも遠くからはるばる徳島の地へ足を運んで演じてくださる役者さんが、そしてそれを支えるスタッフさんがいるからですよね。毎回、「ありがとうございました。今回も楽しかったですよ。」と心で感謝の言葉を述べながら劇場を後にしています。

今回は、孫たち家族と観劇しました。「生の舞台は本当にいいなあ」が第一声でした。「あの警部は何者?」「天使か死神か」「反省を促すのか、今後の生き方にアドバイスをしているのか」見る人によっていろいろな感想があります。孫は、「存在しない人で未来の人、赤ちゃんの生まれ変わり」という感想でした。
 しばらくは家族内で警部の話でもちきりで、観劇を通じてコミュニケーションが深まりました。
 声の強弱、切れの良いセリフ、言葉のキャッチボール、どれをとっても素晴らしい作品でした。

サスペンスものでありながら 刑事事件にはならない。直接手をかけた訳でもなく ストレートにいうと 運の悪い女が勝手に死んでしまった。一体あの刑事とは誰なんだろう。
 人間の心の中の悪を自分に認めさせ 反省させて 自分の罪と向かい合わさせるためにやって来た それぞれの心が持つ一握の小さな善かなと 思ったりもします。見えないところの悪は必ず見えてくる。天網恢恢疎にして漏らさず という諺が頭に浮かんできました。

最後の設定に疑問を感じました。
 ハッピイエンドにしてほしかったです。

昭和15年の春、企業経営者である倉持幸之助の自宅応接間では、娘沙千子の婚約者を招き一家団欒の夜を過ごしていた。そこに影山と名乗る警部が来訪し・・・。舞台は、影山警部が、自殺を図って病院に運ばれて2時間程前に亡くなったある女性について、倉持家の人々との関係を一人一人問い詰めて、登場人物たちの心の闇を暴いてゆく展開であり、沈着冷静な影山警部の質問に、始めは余裕を見せていた倉持家の人々が次第に追い詰められてゆく光景に引き込まれ、あっという間の2時間だった。観劇して印象に残ったのは、娘沙千子が洋装品店での出来事から女性に対して行った仕打ちを反省し罪の意識に苛まれ、また、息子浩一郎が自己の無責任さと過ちを反省するのに対して、幸之助とその妻ゆきは、亡くなった女性に対して行った仕打ち(不当解雇や慈善活動における救済の拒絶)に対して、仕方がなかったという態度であり、最後まで自己の責任を認めなかったこと。それは、物語終盤でのどんでん返しを経て、より強調して描かれている。今回の舞台は、昭和15年という戦争に向かってゆく時代背景の中で、人権や社会的正義が軽んじられた当時の風潮を感じさせるものであり、個人と社会の関わりについて、現代の私たちに突きつけられた問いのようにも思えた。

大変素晴らしいお芝居でした。

夜の来訪者の感想としては、最初から最後までミステリアスでホラーな出来事に圧倒されてしまった。という感じです。幸せ一杯の祝福モードの倉持家に、夜中に突然、影山という警部(?)が現れ、ある女の死が、家族全員に関わりがあることを次々と暴露する。やがて、過去を反省する者としない者とに、家族は分断されてしまう。
 それにしても、影山警部はいったい何者だったのでしょうか。神か悪魔か? 考えても謎は深まるばかりです。
 でも、とても見応えのある作品でした。

刑事を名乗る男の目的と素性をあれこれ考えながら観ていたのですが、最後にかかってきた電話で男の正体が人間ではなかったことが分かり、この話はオカルトだったのかと衝撃を受けました。 もう少し考察すると、 男の正体はキリスト教的な視点で言えば天使であり、一家の傲慢を戒め、悔恨のチャンスを与えるために現れたのかなと思いました。 一家が皆、 己の行いを悔い改め、今後は身を慎んで暮らしていくように反省すれば、病院からの電話はかかってこなかったのかもしれません。色々な受け取り方ができる面白いお芝居でした。

2時間集中して見入った。最後は一人の女に繋がっている話なのか、複数の女のことかわからないが、人間一人一人の行いが社会の中で影響し合って積み重なっていくことが示唆された。

鳴門例会カーテンコール

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