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瀬戸口郁さんに
開演直前インタビュー

楽屋訪問120



 俳優座劇場プロデュース公演「夜の来訪者」鳴門例会(2025年9月24日)で“影山警部”役をされる瀬戸口郁さんを開演前の楽屋に訪ね鳴門市民劇場がインタビューしました。

瀬戸口郁さん"

鳴門市民劇場(以下鳴門と略) まずは作品についての質問です。この作品は1991年の初演以来、キャストを変え、何度も上演されています。「時代を超えて上演する意義」というものを教えてください。

瀬戸口郁(敬称略 以下瀬戸口と略) 「夜の来訪者」は演劇史の名作として殿堂入りしてもいいと思うほどよくできた社会派ミステリー劇です。この作品はどの時代にも響く内容を持ったドラマだと思いますが、特に今の時代、この日本で上演した時にご覧になっている人に刺さるセリフが多いドラマだと感じています。プリーストリィの原作戯曲を八木柊一郎さんが舞台を日本に置き換えて翻案されたのですが初めて台本を読んだ時、八木さんが見事な仕事をされていると思いました。この本のセリフは一語一句大切にしなければいけない、今もそう思って演じています。
 それからこの芝居は俳優座劇場プロデュースの財産演目です。これまで色んな俳優の方々が演じられた舞台をわたしも観ていましたからね。決して我々が汚すようなことがあってはならない(笑)。俳優座劇場制作の箱田さんから「影山警部をやっていただけませんか」と出演オファーの電話があった時、あれは大変な役だ……と思いながらふっと頭をよぎったのが「倉持」役をどなたがやるのかということでした。影山警部はこの男の家を壊しに行くんですから。それで「倉持役はどなたがおやりになるんですか?」と箱田さんに訊いたら「劇団1980の柴田義之さんです」というお返事。即座に納得しました。あの方は人間の「業」を舞台で表現することでは天下一品ですから。これは壊しがいがあるな、と(笑)。ほかの共演者の方たちも皆適役で、手前味噌ですが、すごくいい配役です。このメンバーで皆さんの想像力を喚起するような芝居を提供したいですね。

鳴門 影山警部が倉持家と婚約者を追い詰めていく過程は巧妙かつスリリングで、この劇の見どころの一つだと思います。影山警部を演じる上で心がけていることがありますか。

瀬戸口 影山警部はきわめてミステリアスな男に描かれているんですよね。物腰がとても丁寧でセリフ回しが特異。実はほとんど普通の日常会話のようなセリフをしゃべっていないんです。「それはあなたがわたくしの質問にお答えくださったらご説明いたしましょう」(実際のセリフをその声音でしゃべる)と、こんな感じなんです(笑)。演出の西川信廣さんから稽古中に注文されたのは相手と向き合い問いかけ続ける存在であれ、それに徹してほしいということでした。ほかの登場人物たちとは違った特異な存在感を舞台の上で出さなければならない。演出家と相談し、試行錯誤の果てにたどりついたのは生活感のある日常的な動きをすべて演技の中から削ぎ落としてしゃべり続けるという演技術でした。わたしは影山警部を演じて舞台にいる間、被害者の写真を出すところと最後に腕時計を見るシーンを除いて、芝居中でいっさい手を動かしてないんです。これ、演ってみると意外と難しいものなんですが、影山として存在するためにはこれしかないと思い定め、ストイックに取り組みました。あと稽古中に一番意識したのは影山が投げかけた質問に倉持家の面々は慌てふためいて右往左往したり、嘘をついたり、結構見苦しいことをするのですが、ここが見どころなので、共演者たちの芝居がしっかり客席から見えるように舞台を動かなければならないということです。立つ位置を間違ってはならない。これは立ち稽古に入ってからかなり意識して稽古をしました。

鳴門 外国の原作ものを日本に置き換える場合、時代設定や演出にも工夫がいると思いますが、本作が昭和15年を舞台にした意味や演出面での魅力など、演出家でもいらっしゃる瀬戸口さんの目から見てどうですか。

瀬戸口 わたしは俳優・劇作家であり、演出家ではありません。行き掛り上、演出をやったことは何度かありますけどね。時代を昭和15年に設定されたのは八木さんですが、これが本当にうまい! 考えに考えぬいてこの時代設定を選ばれたに違いない。昭和15年ですからこの翌年に戦争が勃発し、やがて日本は敗戦し多くの人が死んで、国土は焼け野原となり……つまりこの舞台は国や人々の運命が大きく動いていく「前夜」という設定なんです。この設定が芝居の中で憎いほど効いている。もっと現代に近い時代を設定していたら、影山警部の存在はちょっと嘘っぽく見えるかもしれません。少し古い時代に設定した方がこの話は演劇的に豊かになる、原作のドラマツルギー(演劇の構成に関する理論)も映えると八木さんが計算なさったのではないかと思います。

鳴門 今までに鳴門(四国)に来られたことがあると思いますが、訪問されたところ、印象に残っていることを教えてください。

瀬戸口 渦潮です(笑)! 観潮船に乗りました。あれはここでしか体験できないものですから。
 鳴門は近年でいうと、俳優として来たのが尾身美詞さんと共演した「ハーヴェイ」。その前が「十二人の怒れる男たち」。これは柴田さんと一緒でしたね。その前は音楽劇「わが町」。土居裕子さんがエミリーを演られて。あの時わたしは舞台で歌っていました。劇作家としては劇団朋友に書いた「吾輩はウツである」。夏目漱石の若かりし頃のドラマですね。それと文化座の「てけれっつのぱ」。あれは痛快時代劇で、今回の出演者有賀ひろみさんが出演されていました。鳴門にはたいへんお世話になっています。

鳴門 演劇界に入られたきっかけは何だったのでしょうか。

瀬戸口 これがね、自分でもよくわからないんですよ。もともとそんな人間じゃなかったですからね。わたしは実家から5分歩くと瀬戸内海というのどかな田舎町で育ちましたから、子どもの頃から海で遊んでばかりいて、お芝居は観たこともなかったし、そんな概念すら頭にはなかった。大学進学で上京したのですが、入ったところが慶應義塾大学文学部哲学科美学美術史学専攻というところでした。美学というのは「美」とは何ぞやということを哲学的に考究する学問です。クラスメイトは学生ながら美術や音楽をかなり本格的にやっている人もいて多彩な背景を持つ人たちが集まっていました。すごく刺激を受けましたね。そんなことも芝居を始めたことに多少影響しているのかもしれません。実はわたし、学生時代に大病を患い1年以上の寝たきり生活を経験しているんです。希望を胸に上京したのに一日ベッドの上で寝ているだけで一日が終わってしまう。まだ若かったですからね、あの頃はつらい気持ちに押しつぶされそうにもなりました。そんな病床の中で「もし健康が戻って普通の生活が出来るようになったらお芝居にチャレンジしたい」という思いが強くなりました。そして健康が回復するや、すぐに文学座附属演劇研究所の試験を受けたんです。大学4年の春でした。病でほとんど肉体的な自由を奪われた生活をしていましたから「ちょっと暴れたい」という気持ちがふくらんでいったのでしょうね。その年は昼間は大学で卒論を書き、夕方から文学座の稽古場に通うという一年でした。大学はなんとか無事に卒業しました。 それから演劇の一本道を歩むことになったわけです。

鳴門 仕事以外で好きなことは何ですか。

瀬戸口 海で遊ぶことです。わたしには海のない生活は考えられません。泳ぐのも好きだし釣りもしますよ。鳴門でも釣りをしました。でも何もしなくていいんです。ただ潮風に吹かれて波音を聞いてぼーっとしているだけで。子どものころから嬉しい時も悲しい時も、わたしのそばには海がありました。

鳴門 「演劇鑑賞会」の活動について考えていることや、鳴門市民劇場の会員にひと言メッセージをお願いします。

瀬戸口 演劇鑑賞会の会員の皆様をわたしは同志だと思っています。演劇は劇場に人が集まらないと成立しません。創り手の我々だけでは成立しないし、創る人と観る人と両方があって初めて演劇という場が成立する。演劇という文化を担う両輪なんです、わたしたちは。この国の鑑賞会運動というものは世界でも独自なもので、長い間この国の演劇文化の担い手であり続けたことは皆さん、誇りに思っていいことだと思います。そして、毎回前例会クリアを目指して汗をかいてらっしゃる会員の皆さんの思いも受け止めて、わたしたちも一回一回の舞台に全力を尽くす。この「夜の来訪者」の座組の共演者たちも皆そう思っていますよ。わたしも鑑賞会があるおかげで全国の舞台に立てましたし、随分教えられました。客席でご覧になっている方から教えられたことはこれまで無数にあります。やっぱり人前でやらなきゃダメなんですね。実際舞台で演じているとご覧になっている方から色んな答えが返ってくる。それをどれだけこちらが受け止めて、ものづくりの糧に出来るか。若い頃はただがむしゃらでそんな事を感じる余裕もなかったんですけど、キャリアを積み重ねていくにしたがって、そういうことを感じることが増えました。だからこれからも鑑賞会を大切にしたいし、鑑賞会の皆さんとは、これからもお互いに一緒に頑張っていける同志でありたいですね。

インタビューアー

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nrt-geki@mc.pikara.ne.jp
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