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オペラ『あん』

劇団民藝公演

鳴門市民劇場5月例会
 2025年5月16日(金)
 感想集


鳴門例会カーテンコール

いろいろな楽器が演奏され始まるこのオペラは歌い手の美しい音色で構成されていて、すばらしいハーモニーが奏でられ、その場面に引きこまれてしまいました。ストーリーの筋道よりもオペラの構成に感動した演劇でした。

ハンセン病に対する差別や偏見は、過去の出来事だと片付けるにはあまりにも残酷で非人道的であると思った。長い年月の中で病気に苦しみ、人としての尊厳も奪われた本人とその家族の心情を思うと、いたたまれない。 無知であるがゆえに「差別」ということが起きたのだろうが、それにしても国は大変な過ちをしてきたという事の重大さを重く受け止めなければいけないと思った。
 生の演奏、そぎ落とされた舞台セットの中で、満開の桜が美しかった。それはまるで壮絶な人生を生きぬき、得意な“あんづくり”で多くの人たちに喜びを与え、初めて人として認められ、必要とされ喜びに満ちあふれている徳江さん自身を表わしているようだった。
 昨年7月「風を打つ」という舞台では水俣病のことが取り上げられていた。そして今回はハンセン病という教科書で取り上げられたであろうけれど、現在はあまりよく知らないという人が多い、この「病」を決して過去のものとはせず、正しい知識をもって何が正しいのかを判断することの大切さを私達はこれからの課題として、伝えていかなければいけないと思った。

正体不明の物に対する畏怖。良かれと懸命に努力した人達(物語では語られてはいませんが)、でも政策に誤りが。ハンセン病患者さんの事を思う度、いつもやりきれない思いに。 物語が澄んだ美しい歌声で語られ、観る側の者にとっては救われた思いが・・。
 徳江さんの「決して不幸ではなかった」、どんな状況下でも懸命に生きることの大切さを教えられました。

ハンセン病のことは知っていましたが、今まで深く考えたことはありませんでした。病気になった方の寂しさ、悲しみ、孤独感等を感じ、胸のつまる思いがしました。しかし、その過酷な環境の中でも、周りの人の笑顔に生きがいを見つけ、努力し続ける徳江達の姿に感動しました。
 また、舞台装置の仕掛け・工夫にも驚き、劇団の人たちの生きる姿勢にも心打たれました。

中学生4人組役のハーモニーが良かった。特に、男子の声が正確で、心地よく、心に残りました。今後の活躍に期待です。生演奏、生合唱は、心に響きます♪ 当然、生舞台もです(^^)v

オペラというのが初めてだったので、ピアノとクラリネット、歌が絶妙で本当によく練られていると思いました。その分、より心に深く響きました。役者さん達のハーモニーも素晴らしかったです。

初のオペラ!聞き取りやすい歌声で、繰り返しのセリフは口ずさんでしまいそうになりました。徳江さんの「あん」、めちゃめちゃおいしいんだろうなあ~と、ほっこりしながら楽しく観ていました。
 どらやき~いかがですか~♪♪
 頭からはなれない!!

今回の例会は、オペラは初めてであり少し難しいかな、聞き取れるのか戸惑いもありましたが、そんな心配も無く、言葉もよく伝わって理解できました。内容もハンセン病とその差別・偏見がテーマとなっていますが、私自身も香川県にあるハンセン病の療養所に見学に行ったことがあり、その時の情景も思い出しながら最後は涙なしでは観られませんでした。生演奏もとても良かったです。

徳江さんは得意のあんづくりを生かし働けてうれしかったと思います。「小豆の声が聞こえる・・」というセリフが印象に残っています。高松市の「大島青松園」で回復者に会ったことを思い出しました。
 クラリネットとピアノの演奏だけに支えられた「オペラ」という舞台も良かったです。それにしても、今も続くハンセン病差別の苦しみ、その苦しみの中から、生きていくための喜びを見つけ出し、さらに後に続く者たちへの慰めとはげましがよく伝わってきました。

ハンセン病の悲惨な歴史を今さら掘り起こしていることに、寝る子を起こすような不快感を少し覚えた。 オペラ仕立てにしていることに疑問を感じた。セリフが、感情表現に乏しい歌唱になっていることで単調な作品になっているように思えた。
 セリフ劇で観てみたい作品だと思った。

どら焼き屋の「どら焼き。いかがですか~」の若く澄んだ声が耳から離れません。また、ピアノとクラリネットが、とても印象にのこりました。
 ハンセン病、香川県の島に療養所があったと聞いています。

「あん」を観劇して、最初生のクラリネットとピアノ演奏で始まり、素晴らしい音色で圧倒されました。また、キャストの皆さんの透き通るような歌声よかったです。
 昔から、ハンセン病の事は知っていましたが、あらためて感じさせられる事が多くあり、「人はなぜ生まれ、どう生きるか」主人公の徳江のセリフに感動し、人はどのような運命に出合うかわかりませんが偏見や差別は絶対にしてはいけないと思いました。
 最後、徳江が世間に認めてもらえないまま、この世を去った事、無念でした‼

ともすれば忘れられそうになるハンセン病の悲惨な歴史や国の責任が今問われています。「あん」という本や映画で大体の中身は判っていましたが、オペラという形で観ることが出来て良かったです。声の美しさやハーモニーがすばらしかった反面、何となく単調で退屈な面もありました。小学生が沢山来ていましたが、最後は飽きた感じでした。

初めて市民劇場に参加させて頂きました。淡路からだと遠いのですが、参加して良かったと思いました。お隣の席の方が、初対面なのに「こんにちは」とご挨拶してくださって、緊張もゆるみお芝居を観るゆったりとした心になれました。
 オペラ「あん」、とても素晴らしかった。舞台装置もシンプルながら工夫されていて、転換もスムースでした。出演者の方々の素晴らしい歌声でハンセン病で一生を閉じ込められて暮らした理不尽さも伝わりました。


(1)高音の歌声がピアノとクラリネットの演奏に乗って、次から次へと続く特異な雰囲気の舞台であった。観客もシーンと静まり、最後の拍手まで聞き耳を立てて観劇に集中した。
(2)美味しく大評判となった徳江の「あん」。その途端、徳江のハンセン病患者の噂が広がり、一挙に客無しとなり、自ら店を去る。・・・それからの徳江の生き方が力強く、胸を打ち考えさせられた。
(3)徳江は千太郎や悪意のない女学生たちと静かに付き合いを続け心を開かせる。ハンセン病隔離療養所を訪問した彼女達は「あずき」や月、星、桜、小鳥達と会話し、育てる生き方の深さに感心し、引き寄せられる。
 療養所の徳江の仲間たちの「甘み試食会」を知り、共に咲く満開の桜に感動する。
(4)程なく、徳江の死を聞くが、30年もの療養所生活の中でも教師への希望と「人を生かす」を底に秘めた徳江の人生の力強さ、周囲の小豆や花鳥とも会話する程の生き方の深さを改めて、またハンセン病隔離政策の酷さと共に考えさせられた。

カナリアは決して放してはいけない。
 「あん」のテーマは、人はなぜ生まれ、どう生きるべきかということなので、「人」でないカナリアはその限りでないというのであろうか。
 この劇には3つの檻があった。檻と表現するときつすぎるかもしれないので、「囲い」ということにしよう。徳江さんの囲い、千太郎さんの囲い、そしてカナリアの囲い。徳江さんと千太郎さんの囲いは時間と努力によって少しは改善されてきた。徳江さんは生きた。つらい人生だったろうが外に出る自由も手に入れた。そして千太郎さんは挫折の中から立ち上がって生きている。明るい未来もありそうだ。
 しかし、である。カナリアは囲いから出したら生きていけないことは自明の理であろう。なのに、「マーフィーちゃんが外に出たいと言っているような気がして」などという勝手な論理で外に放つとは度し難い。カナリアは外で餌を取れるか、寒さに耐えられるか、それよりも他の動物から身を守れるか、3日ともたないであろう。それなのに外に放ってしまった。カナリアには「囲い」が必要である。人の手による庇護が必須である。
 もっとテーマに沿った感想を書かねばいけないのだろうが、私はこの放たれたマーフィーちゃんに一番の思いを馳せてしまった。

最近でさえ、コロナ患者さんが差別を受け、苦しい思いをなさったと聞きます。繰り返されるのですね。「あん」のご婦人は、素晴らしいです。
 自分の技術を伝えていかれた。生きたあかしを伝えた。私は何もないように思えます。何を残したいのか、何を伝えたいのか、考えてしまいます。
 音楽も良かった。「ホット」する音色でした。

「どら焼きの味は、あの「あん」で決まるかも・・・。」店主は、働きたいと言ってきた老女に「あん」を作ってもらってみて、その美味しさに驚いた。すぐに雇って、できた「どら焼き」はよく売れたが、徐々にお客さんが減ってくるので、聞くと彼女はとてもうきうき作業しているにもかかわらず、ハンセン病患者であることも言った訳だ。その事から客数が前と同じにもどってしまった。
 この「あん」の原作者:ドリアン助川氏は世界的に有名でいらして、老女、徳江さんの生き方を通して「生きる意味」を見出して下さったようです。

「あん」は樹木希林さんの映画を数年前に観ましたが、オペラにするとどうなるのか興味がありました。
 映画の場合は、主役は樹木希林さんでしたが、オペラにすると主役はいないなと感じました。徳江さん、店長、森山さん等、皆が主役のように思いました。
 今回、3校の小学生が招待されていましたが、差別や偏見についてどのような感想を持ったのか気になります。

ハンセン病は知っていましたが、今回の「あん」は病気に対する差別の怖さを感じる舞台でした。重い物語でしたが、クラリネットとピアノの生演奏がとても美しく、それに歌がプラスされていて素晴らしいものでした。
 オペラは初めてでしたが、ストレートに言葉が伝わり心にも届きました。
 今日は「オペラデビュー」の日でした。

家帰ったら夫が洗濯物を干していたので
「あら♪せんたくしているのねー♫
と意味もなく歌うように話している自分がおりました

ハンセン病の差別問題という重いテーマであったので、芝居が進むにつれ胸が痛くなりました。
 今までオペラを観劇した経験は少ないのですが、オペラという表現は台詞が音楽にのることで心に響きやすくメッセージが伝わりやすいのだということが改めてわかりました。

私の中で心に残ったキーワードは「聴く」と「ひとに喜んでもらう」でした。
 いずれも、私たちには想像もできないような過酷な運命に苛まれながらも生き抜いた徳江さんからもらった言葉。そしてこれは、千太郎とワカナにも徳江さんが身をもって教えた言葉だと思います。
 徳江さんは「小豆」の声を聴いていました。自然の中で木々の声も聴いていました。それらは徳江さんの特殊能力的なものにも感じられるのだけども、実は、対峙している人間の「声」をちゃんとちゃんと聴いてあげることと同列。そして徳江さんから差し伸べられた手と魂で、千太郎は再生への道を見つけられたし、ワカナも大人に一歩近づけたのではないかと思います。「耳を澄まして、聴く」ということができたら、自分の精神も人と人の関係も穏やかになる、そんなことを教えてくれた気がします。
 徳江さんは「人を喜ばせることが好き」でした。「好き」ということを超えてそれを自分の生きる力にしていたようにも思えました。「自分自身がやりたいこと(だけ)をやって、やり遂げて、それが自分の喜びになって次のドライビングフォースにもなる」という強い人は確かに居ます。でも(これは私自身がそちら側の人間だからより共感できたのですが)やはり、人は最後には「誰かに喜んでもらう」ことで幸せを感じる生き物ではないでしょうか。ひとりだけでは生きていけないのだから…。
 そんな、人間関係でものすごく大事な2つのことを、自分のせいではないのに社会からはじかれてしまった徳江さんが示してくれたという現実は、本当に皮肉で悲しいものですが、そういう徳江さんが示してくれたからこそ、値打ちがより一層大きなものになるのかなとも思えました。
 簡単なセットで色々な場面転換を作っていた演出は素晴らしかったです。特に、悪意あふれる噂を流すひとたちや少女だった徳江さんを“消毒”して宝物のブラウスを捨ててしまう心なき医師や看護師を「影絵」で描くアイディアは面白かった(人間が演ると、きっと生々しすぎる…)。また生演奏と歌声のおかげで、重い重いテーマが、直球ではなく静かに私の心にアプローチしてきてくれ、これもこの作品の表現の仕方として良かったのかなと思いました。

―「幸せについて」― (持論)
 「生きる」より上のことはなく、生きていることが一番幸せなはずなのに、「生きる」=「幸せ」とは限らない。
 「幸せ」は生まれた時に平等に与えられた権利なのに、全ての人が平等であるとも思えず、また「幸せ」の基準も人それぞれで、他人からは幸せそうに見えなくても、実は幸せだったりする。
 「幸せ」は追い求めるものではなく、また他人から与えられるものでもなく、自分で見つけるもの。他人と比べるものではなく、自分が幸せと思えば「それは幸せ」です。
 徳江の人生は過酷なものだったけれど、その中に「小さな幸せ」をたくさん見つけ出していたに違いない……そう思いたい。
 いつもなら、話しの中にグッと入り込んで行くのですが、今回は話しが重く深過ぎて……難しいテーマでした💦
 何か変ですが、素直な感想です。

人はなぜ生まれどう生きるべきか?がテーマということですが、本当に難しいテーマですね!
 幸せに生きられれば、それに越したことはないと思いますが、幸せとはなんぞや?というのも人それぞれ違うでしょうし!
 それ以上の難しい議論はなかなかできませんが…
 ハンセン病に罹患して隔離されていた方々は本当にたいへんな人生だったのでしょうね!想像を絶するものがあったでしょうね!
 それを少しは考える機会を与えてくれた観劇のような気がします。
 クラリネットとピアノの美しい音色にのせて、こころに沁みるような劇でした。

感動的ではありましたが、日本人としては暗の部分が取り沙汰されて、色々考えさせられました。

鳴門例会カーテンコール

今回の観劇である「オペラあん」は、別名で「オペラ哲学」とでも呼びたいほどのとても素晴らしく、且つ人生というものを深く考えさせられる名作と言っても過言ではないかと、私としては思いました。
 それは何かというと、少女の時に連れてこられたハンセン病の療養所という外界と隔離された異質な空間での長年にわたる生活を考えると、もし私が徳江さんと仮定するならば、到底受け入れることが出来ず、精神を病んでしまのではないかとの恐怖感を抱いたのです。そして、そこからそんな境遇下に置かれた自身の人生に対して想像上とはいえ考えを巡らすことで、改めて私の人生とは何かと考えさせられたからです。さらにそれらに加えて、「隔離された空間」との状況から、同時に私は中東のガザ地区を思い浮かべずにはおられませんでした。先日の報道でも映し出されていましたが、食料の配給に我先にと容器を差し出して群がっている少年たちの生気の無い絶望感に満ちた瞳が脳裏に焼き付き、それが再び浮かび上がってきて、暗澹たる気持ちになったのを思い出したのです。つまりは、「隔離」という閉塞感に満ちた空間を想像するだけで、私は言いようのない息苦しさを覚えずにはいられなくなり、それ故にそのような状況下に置かれた身動きの取れない自身の人生を考えると、気が狂いそうな圧迫感に囚われる感覚が押し寄せてきたからなのです。
 しかし、私なら到底耐え得ることが出来ないそんな過酷な環境の中でも徳江さんは絶望と悲しみから立ち上がり、常に前を向いて自身の置かれた境遇下で可能な限り人生を実りあるものへと慈しみをもって育んできた生き様には、尊敬の念しか湧きません。それは、ハンセン病の療養所に隔離されて国語の教師になる夢を絶たれた徳江さん自身が、手が届かなくなってしまった将来への夢を抱き続けることではなく、それとは逆に今置かれた環境下で現実的に出来ることは何かと考え、そして他者に喜んでもらえる事を地道にコツコツと積み上げて生きて来たからこそ成し遂げられたと思ったからなのです。というのも、現在に至るまでの私自身の人生を振り返ってみても、私は昔からおよそ大した夢(大志)を持つことも無く、何気ない平凡な日々の積み重ねである自身の人生を今まで歩んできており、ただ単に目の前の事柄に愚直に取り組んできて今日があるとの自負を持っているからです。その延長線上に他者から「ありがとう」との言葉を貰えれば、それが最高に幸せな人生に繋がるのだと思います。
 ところで、徳江さんが「どら焼き用のあんこ」を作る際に唱える呪文(小豆との対話)が、私にとっては以前放映されていたNHK朝ドラの「カムカムエヴリバディ」を彷彿とさせる場面でした。今回の舞台では「小豆の声を聴く」と言っていましたが、NHK朝ドラでは小豆に対して「おいしゅうなぁ~れ、おいしゅうなぁ~れ」とあんこを作っている鍋に向かって呟くさまが、舞台上で奏でられる音色と役者のセリフとが私の脳裏で重なって、そこにある種の懐かしさのようなものを感じ取ることが出来ました。これらの場面等から、仕事であれ、育児や平凡な日々の営みであれ、何かを成し遂げるのであれ、はたまた何かを作り上げるのであれ、やはり大事なのは丹精込めて事に当たることではないかということです。つまりは、いい加減な気持ちで物事に当たっても良い結果を生むことは殆ど無かろうと思うのです。そこには、心を籠めることが良質な結果を生み出すことに繋がるのではないかと改めて思いました。
 一方、徳江さんが舞台で語っていた「私にも生きていたらワカナちゃんと同じくらいの娘がいたの」というセリフから、私は容易に「人工中絶」を強いられたのだと気づきました。また、これが男性なら「断種」という手段を講じられたことも容易に察しがつきます。つまりは、これらの施術は当時の人権を無視した非人道的な行為です。そして、当時の医学的見解からは正しいとされていた知見(現代医学では否定されている知見)であっても、本人の意思に沿わない「人工中絶」や「断種」といった医学的行為は、それがたとえ「医学」という名の下に行われたとしても、「偏見」や「無知」から生まれた科学的根拠が希薄な優生学的思想に基づいた断じて許されない行為であることは火を見るよりも明らかだと思います。さらに、現代においてもSNS等で拡散し易い情報とは、非科学的で真意不明な感情を刺激する情報と言われています。ですから、これら偏見(バイアス)に満ちた情報に左右されないためには情報リテラシーを持つことが重要です。また、「偏見」が「差別」を生み、さらには「差別」が「人々の分断」を引き起こします。したがって、そのような観点からすると、人間という生き物は、舞台上の時代のみならず現代社会においてもフェイク情報や根拠に乏しい情報に安易に飲み込まれて、倫理的かつ人権的にも間違った振る舞いをするという、当時から現代に至っても全く成長が認められない愚かな生き物ではないかと、私自身も含めて改めて自省しなければと思いました。
 その他にも、今回の観劇では色々とハッと気づかさせられるセリフが至る所にちりばめられており、とても感心しました。一例を挙げると、「太陽は全ての人々を照らすが、月はひとり一人の人間と対話をする」という捉え方に、私では思いもつかなかった視点というものを感じ取ることが出来ました。 また、それらとは別に、劇の始まりから終わりまでの全体を通して、こんにゃく座の役者の方々の声量ある美しい歌声に私は魅了されました。役者達らの歌声はとても聞き取りやすく、そして透明感あふれる美しい声に、私は身体を包み込まれるようで何とも言えない感覚を覚えました。
 最後に、今回の公演が演じられる前に貰った印刷物に「あなたは、つぶあん派?それともこしあん派?」とのコメントがありましたが、皆様のお好みは如何なものなんでしょうか?私の個人的な好みとしては、「あんこ類」はあまり好んで食べないのですが、娘が「こしあん派」なんですよね。ですから、例えばイチゴ大福なんかは、もっぱらウチでは「こしあん」です。とはいえ、どら焼き(回転焼き、大判焼き等々も含む)は、私としてもやっぱ「『つぶあん』でなけりゃねぇ~」って思う今日この頃です。というのも「ガブリと頬張った時のあの粒粒感がたまりましぇ~ん」といったところでしょうか?ちゅうことで、結局のところは「各々のお好きなように」でしょうかね!?

森山の演技が良かったな、と。もっと出番が欲しかったくらい。
 突如、青春を奪われること、令和の時代からは想像できない世界。
 その過酷な世界でもスイーツを作ることで抗ってきたであろう徳江と森山。
 『やり遂げたな』のところで涙腺崩壊。
 今回も無事に泣くことができストレス解消できました〜。

しばらくは、
 「うめぼしーいかがですかー?」的に歌で会話してうざがられそうです。
 メロディにのせるだけで、内容が入ってこないタイプなので、大分頑張ってみていたのでぐったりしてしまいましたが、知っている話だったのと聞き取りやすかったのとで、なんとかついていくことができました。
 最後の徳江さんの手紙部分は最初の自分がたりのところが流れて全然入ってこなくて困りましたが、「雇ってもらえて嬉しかった」あたりから入ってくるようになってなんとかいけました。 が…。
 私にはオペラは感情移入が難しいなぁ…。
 集中力を保つのが大変で…。
 水曜日の、友人の読み聞かせのたんぽぽさんぽの「んぽんぽ んぽぽ んぽ んぽぽ 」が絶えず頭のなかで鳴り響いていて(多分オペラだから勝手に脳内変換される)、不謹慎だなぁ私ってって思いながらみていました。
 クラリネットの演奏が素晴らしかったのと、学生チームのかけあいとハーモニーは楽しめました。
 でも、とてもよいお話なので、小説をもう一度読みたくなりました。

大変良かったです。
 ハンセン病の為に家族と離れ、お菓子やあんこ作りに没頭したトクエ様、昔はなんて不合理な事をしていたのですね、今の時代からは考えられないです。 そんな生活でも自分の楽しみは見つけていたと思います。
 オペラだけあって、美しい歌声、演奏、ハーモニーが素晴らしく、出演者が一体になっており見応えがありました。

印象に残ったのはふたつ、繰り返された「どら焼き~、如何ですか~」の台詞、それと“映画 あん”で市原悦子が演じた徳江の友人役の女性が“タモリ”にそっくりなのが気になって、気になって・・。
 その“タモリ”役(相原智枝)が、最後にキャストが順に登場して舞台を締め括るカーテンコール(というのかな?アンコールはもう少し聴かせて欲しいと曲をねだることだから・・)で、
 見目麗しくてとても素敵な方(女性)だったことがわかり何だかほっこり・・の感じ。 演劇/ドラマなどの最後の場面で、すべてが円満に/めでたく収まる、明るい終わり方/結末の“大団円”で気持ちがストンと落ちる感性/性分の日本人なので・・、だとすれば、これはどうなのかなぁ・・。
 オペラと言われると、小難しくて敷居の高いものと思いがち(実際そうなのでしょうが)だが、世代を問わず、老若男女が芝居やミュージカル観るのと同じように・・であることを祈って/楽しみして会場に足を運んだのですが・・。 やはり、数百年前にイタリア(フィレンツェ)で生まれたオペラ(古典)と、オペラから派生してアメリカ(ニューオリンズ)で発展したミュージカル(現代)の違いが、それぞれの時代に生きる人々の感性にマッチしているのでは・・、と感じてしまった。
 ミュージカルとは違い、マイクを使わずに自らの身体をスピーカーにして喉に負担をかけない唱法だというのは本当でしたねぇ。 台詞も(クラシック調に)作曲され/歌って表現していて、ストーリーも歌唱によって展開して、役柄や感情などのすべてを歌唱で表現されているし、伴奏も(こじんまりと)生のピアノとクラリネットと・・、“歌唱が最も重視されている”これがオペラなのだ、というのがわかる舞台でしたが・・。
 (オペラから派生した)ミュージカルの方は、地声、ミックスボイス、ファルセットなどのポピュラー音楽と同じ/発声法で、様々なジャンルの音楽を使用し、歌と台詞は明確に分かれているので、とても馴染みやすくて、歌以外にダンスや芝居の幅広い動きもあり、マイクをも使用するし・・、今を生きる私にマッチ。 “おれたちは天使じゃない”での、馴染みのある“いずみたく”の音楽に・・、のようにねぇ。
 「あん」の原作を読んでいないが、随分前に映画“樹木希林、最後の主演映画”を鑑賞している。 ハンセン病の教育映画ではないから、ハンセン病について、(差別や隔離政策が過ちだった点など)詳しくは触れていなかったけれども、ハンセン病を知っているひとには十分に伝わることだと・・。
 差別問題も大きなテーマなのでしょうが、本当に重要なのは「人の生きる意味」を問う、という大変深いテーマが描かれていたようにも・・。
 徳江が千太郎(どら焼き屋雇われ店長)とワカナ(中学生の常連客)に残したメッセージ「私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。だとすれば、何かになれなくても私たちには生きる意味があるのよ」に濃縮されているように感じられる。
 千太郎にとっては、“どら焼き屋”はやりたい仕事でなくて、自分を縛りつけるもの、彼にとっては監獄・・。一方、社会と隔絶された施設内で“あん”づくりをしてきた徳江が、はじめて外/社会にでて実に楽しく働く様子が生き生きとしているように描かれているのとは対照的。
 千太郎と徳江との、この違いは何なのか・・・。「“働く”は何か?」という問いかけも・・。 “自分を認める(自己肯定感)”、“成し遂げる力がある(自己効力感)”、“役に立っている(自己有用感)”の3つが揃って自己を確立でき、初めて人は自信を抱くことができるとも言われるが・・。
 徳江には“自己肯定感”はあったのだろうが“自己有用感”を味わったことがなかった(“あん”をつくっても、施設の外で誰かに味わってもらう機会がなかった)。 “自己有用感”が得られなければ、“自己効力感”も得られない。 彼女は外/社会に出て自分の能力を生かして働くことで、自分の人生/幸福を結実させることが出来た。 でも、“人の役に立つこと”が生きる(ことの)意味なのだろうか・・、“働く”ということが“何者かになるための手段”ではなくて、“働く”こと自体が幸福の因子なのでは、と相対化されている。
 人と人との関わり合う明るさというのは、うわべだけの励ましや同情/感情からは決して生まれてこないもので、生きて暮らす日々にしっかりと根を張った明るさで・・、それを衒うこともなく表現していて・・。
 ハンセン病をテーマにした作品では、松本清張の“砂の器”もあるが(映画化もされ)どうだろうか。 清張の“砂の器”は、当時不治の病と言われたハンセン病への差別と“差別”に対して人間愛で手を差し伸べることが招いた悲劇/不条理を描いている。 また、隠すべき“社会的負性(スティグマ)”の象徴としてのハンセン病という偏見自体もが、作品/原作の中では全く疑われていないようなのだが・・。 映画では、原作ではわずか数ページにすぎない記述/箇所が、40~50分と全体の大半を占めていたが、ここでも隠すべき“社会的負性”としてのハンセン病という偏見は相対化されていなく、“あん”とは違う。
 必要だったのは/欲したのは、作品(原作&映画)の山場を作るに相応しい“社会的負性”であって、その“社会的負性”に相応しいものとして“ハンセン病/業病”があっただけなのだろうか・・とも。
 でも“宿命”の意味を問われた主人公(和賀)に「生まれてきたこと。そして生きていくということかも知れない・・」と応えさせてはいる。 “あん”の徳江が残したメッセージでは「私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。だとすれば、何かになれなくても私たちには生きる意味があるのよ・・」と・・。 それにしても、「パッチギ」(井筒監督)、「GO」(窪塚洋介)、ビートたけしの「血と骨」などの在日コリアンを描いた作品や、日本人が主人公でも戦時中を舞台にした作品には朝鮮人が登場するものがたくさんある。
 例えば「ホタル」(高倉健)、「福田村事件」等々、また“鳴門市民劇場/観劇の2年間でも「星をかすめる風」、「グレイクリスマス」と2割弱ある”が、“ハンセン病”をテーマにした作品は少ないように感じる。紛れもない日本の現実で(在日コリアンよりも)ずっと長く日本の歴史に関わっているのに、相対化されていないのはなぜなのか?

新会員さんを迎え一番前の席で観せていただき、いわゆるかぶりつき。オペラという事でオペラのイメージをいだかれて入会された方の横で、ハンセン病という重いテーマの劇をどう観られるかと思いながら、ハラハラしながら観ました。
 しかし、次回の会費も渡していただいて、ほっとしております。またじっくり感想をお聞きしたいと思います。

悲しくてつらいエピソードが散りばめられた物語でしたが、美しいハーモニーに救われました。徳江の透き通るような心根が見ている側に伝わり、温かい気持ちで見終わりました。

オペラ「あん」は、映画で観たことがあるので、内容、人物とも理解できていたので、より楽しむことができました。こんにゃく座の方達の歌声が透き通っていてとにかく綺麗でした。クラリネットの橋爪さん、ピアノの入川さんも綺麗な音色で、帰ってから YouTube で探してしまいました。
 人生いろいろですが、後悔のない人生を送りたいなと考えさせられました。

初めてのオペラ、分かりにくいのかと思っていたらミュージカルより分かりやすい歌で良かったです。
 メロディーによって喜怒哀楽が伝わりやすいような気もしました。
 最後に桜たちの声が聞こえると歩いている場面では色々な方の人生が重なり、涙があふれてきました。
 悔いのない人生を送りたいものですね。
 いつになっても、好奇心と前に歩んでいく気持ちを持ち続けたいものです。

表現の仕方として参考になりましたね。なるほどという感じです。


(オ)オペラと言えば、舞台の下にオーケストラ。と思い込んでいたが、こんな風に二つの楽器だけで舞台を進めていくのもあることを知った。劇が始まる前に、ピアノの入川さんとクラリネットの橋爪さんが舞台右に座られた。今日の劇はこの二人の奏でる音に合わせてセリフが流れるんだ。どんなセリフにどちらの音が入るのか、ずっと一緒に演奏されるのか、どちらも楽しみ、楽しみ。
(ペ)ペイン(痛み)を伴うセリフの時はもの悲しい音になり、楽しい時にはより楽しげに、でも、表情は何も変えずに演奏なさっているお二人。流石だ。お二人の奏でる優しい音色が心に染みるようだった。オペラはミュージカルと違って、演者がマイクを使わないから、余計に音が邪魔にならないように気をつけていたかもしれない。
(ラ)癩病=ハンセン病。なんとひどい扱いであったことか。母が縫って着せてくれた、たった一枚の白のブラウスさえも取り上げられ、処分された徳江さん。まだ十代のかわいい盛りだったというのに。療養所での生活は外の世界と分断され、家族と離され、自分自身も名前を変えられ、別人にならざるを得なかった。そんな環境の中にあって、徳江さんのあの優しさと逞しさはどこから来ているのだろうか。
(あ)「あん」のタイトルの「あん」は、なんと餡子の「あん」。もう、ビックリ!そして劇中歌のような「どら焼き、いかがですか♪」。あのメロディが観劇後も頭の中で、心の中で、ずっと響いている。さて、今回のストーリーは・・・
(ん)「ん?ん?ん?上手い!」。徳江さんの作った餡を初めて食べた時、小さなどら焼き屋「どら春」の雇われ店長の千太郎は思わず叫び、徳江さんは「どら春」で働くことに。徳江さんの作るあんが評判となり、売れに売れるどら焼き店になっていった。ところが、徳江さんがハンセン病患者だという噂が流れ、次第に売れ行きが悪くなる。徳江さんは働く喜びを知り、また、ワカナちゃんや他の中学生と触れ合える機会を得たと喜んでいたというのに、元の生活に静かに戻っていった。徳江さんが暮らすのは天生園というハンセン病の療養所。徳江さんがこれまでの55年間を友人の森山さんと共にどのように過ごしてきたのかを知り、徳江さんがどのような思いで「ドラ春」で働いていたのかを千太郎やワカナちゃんとともに知った。胸が張り裂けそうだった。
 目を輝かして来たる春を待ち、サクラを愛で、自分のためではなく人のために役に立つことを見つけ、困っている人にはそっと手を差し伸べ、一緒に楽しみを分かち合い、人の喜びを自分のものとして喜べる、そんな気持ちに私もいつかなれるだろうか。

俳優たちの名演技が心を打ちました。中でも各々の口から発せられる声の力強さには、同じパフォーマーとして基本に忠実であることを学ばせていただきました。ともかく今年の大道銀天街カラオケ(予選が6/15)には今回のことを良き方向に活かせれば、本番の納涼市で皆様方の前で坂本九さんの「見上げてごらん夜の星を」の曲をステージ上から披露できることと思います。夏の夜空に響き渡るパフォーマンスをお見せできれば幸いです。

初めてのオペラでした。堂々と歌い上げるイメージでしたが、優しい声で心に響くところ、コミカルなところ、様々な場面があり、楽しめました。また、生のピアノとクラリネットの演奏で盤面の様子ががらりと変わるところなど、その音色に魅了されました。昔観た映画ではハンセン病の事に涙をしましたが、今回は人の優しさや強さを感じました。

鳴門例会カーテンコール

E-mailでのお問い合わせは、        鳴門市民劇場ホームページ
nrt-geki@mc.pikara.ne.jp
まで。