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星をかすめる風

青年劇場公演

鳴門市民劇3月例会
 2024年3月23日(土)
 感想集


鳴門例会カーテンコール

徳島ホールを出た私を追ってきて、徳島市民劇場の会員さんが『あれはダメだよね』と人体実験のこと『そうよ、絶対ダメ』と言って温かい空の下、2人は友でも知り合いでもないのに泣いてしまっていた。
 私達の親世代は侵略戦争で人生を狂わされ……
 2時間たっぷり1942年頃の福岡刑務所の中、あの頃の人権無視や囚人を暴言暴力でやりつける様……しかし、青年劇場が演じてくれたのは、オモニを想い、星をながめ、優しくて詩を口ずさむ若者が居て、ここを図書館にしたいですと言葉として申し出てどんどん環境が変わってゆく……なんという心の中の美しさであろうことか。80年後の現在、美しい魂をキラキラ輝かせてもらいました。
 もっともっとたたえたい!青年劇場の皆様のお力で優しい気持ちをいただきました。

15名の出演者が入れ替わり立ち替わり舞台に入場し、声を高らかに表現し、身ぶるいするような感動しきりでした。
 心に飛び込んでくる声量は、時に目を覚ましてくる迫力がありました。これも文化ホールの良さではないかと想います。

この作品を鑑賞して、日本軍の731部隊が中国で行った生体実験のことを思い出しました。『悪魔の飽食』(森村誠一著)を読んで、日本の戦争加害について知ることの重要性を知りました。福岡刑務所における朝鮮人への生体実験のことを取り上げた青年劇場の皆さんに敬意を評します。

日本帝国に反する思想を持つという理由で、自由を奪われながらも文学や音楽に触れることで、正常な心を持ち、自ら悪役となり、囚人たちの生命を心を守っていたのだなということがわかり、驚きました。また、杉山殺しの犯人で処刑されたと思っていた囚人331の逃亡に手を貸していた所長にも驚きました。読み上げられた詩もとても印象的で、詩集を読んでみたいと想いました。

最初、映画「ショーシャンクの空に」のようなストーリーかなと見ていたが囚人たちから鬼看守と恐れられていた、杉山の真意が徐々に明らかになって行く。
 尹東柱の虐げられながらも作られた詩。
 同時進行で腑に落ちて、舞台を堪能した。

福岡刑務所で、過去に悲惨な出来事があったということを初めて知った。
 舞台は薄暗く、重々しい空気が漂っていた。満天の星空、ピアノ演奏が重い空気をやわらげていた。過酷な状況にあっても、芸術に触れることによって、人間らしい心を取りもどし、生きる希望を見出すことが出来る。
 すばらしい文学、音楽、芸術に触れることがどんなに大切かを尹東柱は私達にも語りかけている。特にたこあげのシーンと韓国語での詩の朗読、ピアノ演奏のシーンが印象深く心に残っている。コロナ禍において自粛をしいられ、私達は心の栄養をもぎ取られた。そしてその事は、いかに心の栄養が必要不可欠であるかと再認識させてくれた。この作品を届けてくださった青年劇場の皆様、本当にありがとうございました。

私の名前は六四五番ではありません。平沼東柱でもありません。私の名前はユン・ドンジュです。
 自分の名前というのは大切なもので、自分を支えるものですが、この状況でそれを堂々と言えるというのはすごいことだと思います。心に残りました。また、医師が囚人たちを人体実験に使っていたというのには驚きました。戦争中にはこういうこともあったんでしょうね。満天の星も印象に残っています。

厚みのある舞台でした。
 市民劇場の翌日、朝日新聞社説にユン・ドンジュのことが書かれていました。全然知らない詩人だったので、それを読んでさらに内容が深まりました。
 「星をかぞえる夜」も一度読みたいと思いました。

むずかしかった。でも何かわからないが引きつけるものがあった。それは、音楽かも、ストーリーかも、表現かもしれない。
 学校の行事の劇で、大声を出す場面があったが、私はあんなに自然に大声が出なかった。さすがプロだと思った。
 人権的にはダメだが多少の犠牲はあっても人を助けられたらいいかも、とも思うがどちらがいいのかわからない。
 そして以前に読んだ本を思い出した。
・「100人の他人」と「5人の知り合い」あなたはどちらを助けますか。
・人間は全ての生き物の中で一番かしこいが、命を粗末にしたり、戦争をするおろかな生き物である。

ユン・ドンジュの詩の朗読は涙が止まらなかった。ユン・ドンジュのようにこんなに心が美しい人っているんだ!と思ったし、文学、特に詩は人の心を変える、杉山の心をあんなに変えた、本や、ユン・ドンジュに驚くばかりでした。
 脚本の素晴らしさで最初から最後まで引きつけられた感じです。それを力強く演じた青年劇場の役者さんたちに拍手を送りたいと思います。

観劇前、“20代後半で日本の刑務所にて獄死した朝鮮の詩人「尹 東柱(ユン・ドンジュ)」のお話”と伺っていたためか、勝手に暗いお話を想像していたのですが、刑務所での厳しい現実を綴った単なるお涙頂戴的な内容の劇ではなく、壮大なミステリーの中に「人間の心の交流」が丁寧に描かれている他、獄中のツラく厳しい生活の中に、詩の持つコトバの力や真心、ヒトの優しさや温かさが散りばめられており、劇終盤に朝鮮語で語られる詩を聴いていると、自然に涙が溢れてきました。
 非常に感動的なステキな作品を観劇することができ、感謝しています。

人はどう結びついて、どのように親しくなっていくのでしょうか。
 人には、何かひかれるものがあります。とても深いお芝居でした。

今回の「星をかすめる風」は、ちょっと難しいと思いました。もも班は7人全員参加しました。50代の女性は「市民劇場やから上演出来る舞台やったな」と。18歳の男性は「ミステリーだった」という感想でした。
 私は81歳で、出兵する近所の人を送ったのをかすかに覚えているし、徳島大空襲を家から見ましたので戦争は知っていますが、知らないこともいっぱいあることをこの舞台で知りました。今、ロシアとウクライナ、さらにイスラエルとガザで戦闘が続いています。多くの人が殺され、罪のない子供まで殺されていて「戦争止めて!!」と叫びたくなります。日本もどんどん戦争へ向かっているのを感じます。
 私は「二度と教え子を戦場に送らない」との思いで教壇に立ってきた教師なんですが、今も「世界中から戦争をなくそう!!」と叫びたい。

社会人1年生の時の上司が、シベリア抑留体験者だった。優しくもあり、厳しくもあったが、人として尊敬できる方であった。帰国できたことを奇跡のように語られたことを思い出す。特に、本が好きな方だった。本を読むことを強く勧められた。「男子三日会わざれば、刮目して待て」とは、この師匠からの伝言だ。亡くなられた時に、奥様から遺品として本が段ボール箱で送られてきた。 今も、本棚にある。こんな上司に、社会人1年目に付けたことが有難かった。組織の人事担当には、こんな配慮も求められると感じた。
 看守:杉山もシベリア抑留経験者だ。どんな思いを残したのだろうと気になった。
 若い看守:渡辺は、そこまで汲み取ることができたのか?
 それにしても、尹東柱役矢野さんの張りのある、よく通る声には、感激した。


(ほ) 本当にビックリした!いきなり、逆さまになった死体が!えっ!何、これ?と思った瞬間、そのシーンは暗転し、消えていった。
(し) 死に神と言われた暴力看守・杉山の死体の服ポケットから見つかった藁半紙に書かれた一遍の詩。これが犯人捜しの手がかりであった。
(を)杉山を殺した犯人は一体だれなのか?囚人の中に犯人はいるのか?それとも・・・?見ている私達はいつの間にか、犯人捜しを始めていた。
(か)駆け出しの看守渡辺が事件の真相を追っていく。囚人への事情聴取をする中で、あの詩を書いたのが尹東柱だと確信する。
(す)素晴らしかったのは尹東柱が思いついた少女を慰めるための凧揚げ。凧揚げをしている時間だけは囚人達も人間らしい気持ちを取り戻せていたことだろう。その凧に自分の書いた詩を残すことを考えつくなんて、凄い!そしてなんと優しい尹東柱か!
(め)目を大きく開けて、スクリーンに映し出された詩を読む。朗読される声に合わせてスクリーン上の文字を追う。言葉一つ一つが優しく、読む側の気持ちが凪いでいく。過酷な環境の中にありながらも人の心を癒やす温かな旋律を産み出していく尹東柱。
(る)ルールも何もない監獄で、日本語が書ける尹東柱の存在は大きかった。彼に手紙を書いてもらう囚人の、国に残してきた家族を思う気持ちが痛い。そして、その手紙の中に、杉山に読んでほしい本のタイトルや思いを次々に入れていく。尹東柱の人柄に、杉山や渡辺だけでなく、私自身もどんどん惹かれていくのを感じた。
(か)堪忍袋の緒が切れたのは森岡院長と2人の看護師が行っていた人体実験!戦時下では一度きりしかない尊い命が選別され、虫けらのように扱われていた。私達はその恐ろしい事実を忘れてはならない。そして二度と繰り返してはならない。
(ぜ)絶対に囚人達の命を実験台なんかで死なせはしない!と強く心に誓った杉山は、ますます暴力を振るって囚人たちに傷を負わせていく、彼らを守るために。看護師の岩波みどりだけが杉山の本当の姿を知っていた。その彼女は、慈善事業の刑務所でのコンサートで、勇気を持って囚人達に自由に羽ばたく歌を歌わせる。あっぱれだ。胸がすく思いがした。杉山を殺したのも森岡院長。医学の為だと偽って、たくさんの人命を死に追いやった彼を許せはしない。いや、絶対に許してはならない!
 囚人達が歌うコンサートの歌声を遠くに聞きながら、満天の星が輝く夜空を見上げる尹東柱と渡辺。そしてスクリーンに映し出される優しい詩。しかし、尹東柱はそこで静かに息を引き取る。まだ27歳の若さだったのに。息をしなくなった彼をしっかりと抱きしめる渡辺にはどんな思いが去来したことだろう・・・。
 今回の演劇を通して、世界から戦争・紛争という悪魔がいなくなることを心から望む。
 No more war ! No more racial discrimination !


1.幕開けから、ショッキングな場面から始まった。鬼の看守杉山が何者かに襲われ階段上に他殺死体として横たわっていた。薄暗い刑務所内で、喧嘩、脱獄、病死、人体実験への抗議など次々繰り広げられるが、都度、暴力・強制力によって抑え込まれる。若い看守渡辺が、殺人犯捜査命令を受け、杉山のポケットから出た一片の詩や杉山をよく知る看護婦の証言、他の囚人達からの聞き込みから、尹東柱の獄中の思いや周りの者達との心の繋がりがクローズアップしてくる。 尹東柱は登場しないが杉山や周りの者たちの心の中に生きる。サスペンス、緊張感の続く舞台であった。
2.しかしフィクションとはいえ、約80年前の軍国日本は日本に住む朝鮮人達にこんなひどい事をしていたんだと改めて強い印象を受けた。もっとしっかり贖罪と、もう二度とこんなことは起こさないと信頼回復に努めなければならないと思った。
3.これに対し、鬼の看守杉山の心の奥のやさしさ、正義感、尹東柱の詩の情景の美しさが際立った。看護婦、囚人達のどうしようもない心の動き、はかなさが対照的だった。
 「星をかすめる風」の詩、もう一度しっかり味わってみたいと思った。

太平洋戦争の最中、終戦間際の福岡刑務所。看守の杉山が何者かに殺され、若い看守、渡辺は犯人捜しを命じられる。聴取を進めていた渡辺は、杉山の看守服のポケットから見つかった一編の詩から、治安維持法違反で収監されていたユン・ドンジュ(日本名「平沼東柱」)という若い詩人と杉山が、囚人と看守に止まらない関係であることに気付き・・・。
 殺人事件の犯人捜しというミステリー仕立ての展開ながら、物語の中心はあくまで暴力看守と名指しされていた杉山が検閲官として、ユン・ドンジュや彼の作品に触れることで生じてゆく心の変化。その象徴とも言えるシーンが、杉山の呼びかけに対して、ユン・ドンジュが「私の名前は645番ではありません。平沼東柱でもありません。私の名前はユン・ドンジュです。」という返答に、杉山が「どんな名前で呼ばれようが、お前はお前ではないのか」と問い質したのに対して、ユン・ドンジュが満面の笑みを浮かべ「『ロミオとジュリエット』を読みましたね!」と言い放った場面でした。文学に全く関心を示さなかった杉山の変化にユン・ドンジュ自身が驚き、喜びを感じた心境が伝わってきました。物語の中で、囚人たちの手紙の代筆をするユン・ドンジュが、文面に作家の言葉を引用することで、検閲官である杉山が文学作品に触れるように仕向けていったとありますが、ピアノの調律ができる程の人物であった杉山は文学や芸術を理解する素地は十分にあったのだと思います。
 また、随所で流れる美しい音楽(岩波みどりがピアノを弾く場面では、本当にそこにピアノがあるように思える素晴らしい演技でした)やラストシーンに朝鮮語で朗読されるユン・ドンジュの美しく抒情的な詩とそれを際立たせる演出など見所満載で、もう一度観てみたくなる舞台でした。

開幕一番に、看守の杉山が目を開いたまま倒れているところからの衝撃的なシーンで始まるのがとても印象に残っていて、あんな急な階段でもピクリとも動かない体幹(?)と演技力にびっくりしました。いちばん好きなところは、ユン・ドンジュが、空の星を見上げながら、詩を読む長セリフです。照明とセリフの声がとても合っていて、感動しました!

幕が上がるとそこには看守杉山の死体という衝撃的なオープニング、サスペンス劇として始まったこの作品、どのような展開が待っているのか一気に引き込まれた。
 第二次世界大戦中の福岡刑務所には朝鮮人、思想犯、その他にも凶悪な囚人が収容されている。若い看守渡辺は、誠実な人柄でこの物語の進行役、事情聴取を進めていく中で少しずつ分かる事実。杉山は、囚人を服従させるために暴力も厭わず、死神と呼ばれていた。誰に殺されてもおかしくはない。囚人の中でボス的な存在の崔致寿は、怒号を発し恫喝もする。最も怪しいが、いちばん怪しい容疑者が犯人だった試しがない。
 ピアノを弾く看護婦が登場し、物語は新たな展開へ、暴力看守杉山には、音楽や文学を愛する一面があることがわかってくる。そして尹東柱の登場。杉山にとって四六五番でしかなかった存在が、尹が翻訳した手紙の検閲の中で、彼の詩に惹かれ、文学に目覚めさせられて、特別な存在になっていく。尹東柱が杉山に「ロミオとジュリエットを読んだんですね!」と嬉しそうに話す場面は、敵対していた者が心通わせる瞬間で、温かい気持ちになり、いちばん好きな場面だ。
 出世しか考えていない刑務所長とコバンザメの看守長は、わかりやすい小役人として描かれているが、滑稽で憎めない。ミステリーで始まったこの作品は、登場人物たちの背景が明らかになり、それぞれの思惑が複雑に絡み合い、人間ドラマの様相を呈し、さらに惹きこまれていった。
 九州帝国大学の事件をモチーフにした囚人への人体実験は、杉山の行動に大きく影響を与え、暴力の意味も明らかになった。誰がどうやって殺したのか、真相ははっきりとは描かれていないが、単純なものではないことは明らかだ。観た後に皆で語り合い、いろいろな考えが出て楽しかった。最後の崔致寿の証言に驚かされ、渡辺が取り調べを受けている場面で言った「私は何もしなかったことが罪です」は、とても重く、印象的な言葉として残った。尹東柱の詩が朝鮮語で詠みあげられ、矢野さんの優しい声と共にこころに残った。配信で観て、東京で観て、計4回観たが、観るたびに新しい発見があり、感動も増していった。何度でも観たい、出会えてよかった作品

鳴門例会カーテンコール

ユン・ドンジュの言葉への強い信頼、自分の存在を親から頂いた呼び名に刻み込むように高らかに叫ぶ姿、杉山看守が感じた思い、彼らの思いと真実を受け取った渡辺、と、すごく丁寧なお芝居で心打たれました。
 戦時下という非日常は、常識人の善悪をも惑わす究極の風が吹き荒むものです。改めて心に刻む事ができ、人が人である為には何が大切か確かめる良い時間をいただきました。 それぞれの役が、不足なく存在感を放っていて素晴らしいアンサンブルでした。拍手。

予期せぬ幕開けともいえる「轟く雷鳴とともに照明下に現れた階段に横たわる一人の看守の死体」という観客の目を舞台に釘付けにする演出に、私は心が鷲掴みにされたような感覚を抱きました。それは、取りも直さず、これから始まる物語への私の期待感を高め、そして舞台上で繰り広げられるのであろう数々の場面へ感情移入するには十分過ぎるほどのインパクトがあったとも言えるかと思います。その後、そんな期待感の高まりとともに舞台上では幾多の場面が変遷を繰り返し、そして私自身が全く予期していなかった展開であった「囚人が刑務所長を買収していた」という結末へと物語は収束してゆきました。
 さて、そんな私の予想を大きく上回る展開であった今回の「星をかすめる風」でしたが、その叙情的な演劇の構成スタイルには、私自身への心が洗われるような美しさに加えてとても深い感動を与えてくれたのではないかと感じ入りました。そこで、そのような私の心を揺り動かすような衝撃を放った「星をかすめる風」への感想を、私なりの視点として異なる三つの切り口から眺めてみた結果を紹介したいと思います。
 先ずは、第一の切り口として、本演劇での主たるテーマと私が捉えている、韓国の国民的詩人である尹東柱が戦禍の牢獄内で、囚人番号で呼ばれたことに対して激しく抵抗した「名前は個人の拠り所(アイデンティティ)」という観点から述べてみたいと思います。
 仮に私が尹東柱と同じ立場にあったと想定して、私という現に存在している人間を「囚人番号」という「記号」で呼ばれたなら、やはり尹東柱と同じ憤りを抱いたのではないかとは、容易に想像できました。彼には「尹東柱」という両親から授けられたれっきとした姓名があるわけですから、自身の姓名がないがしろにされるのは、この上ない屈辱であったのだと思いました。そして、この事と同時に、私は現在の日本で遅々として進まない「選択制夫婦別姓制度」が脳裏をよぎりました。現在の日本では、婚姻後に姓を変えるのは、殆どが女性であるというのが現実です。それに加えて、婚姻後の女性が姓を変更することによって被る不利益も多々あると聞き及びます。そんな中、姓の変更を余儀なくさせられる女性の立場に立つと、姓の変更による「自身のアイデンティティの喪失」は、計り知れないほどの心の負荷となるのは想像に難くありません。このようなことから「姓名」は、「ヒト」が「人を人たらしめる」ものとして唯一無二の存在なのではと思いました。
 次に、詩集等の「言葉の持つ力」としての第二の切り口から眺めてみたいと思います。シベリアでの捕虜生活が杉山の心を大きく蝕んで行き、心の傷(トラウマ)となったのは想像に難くありません。そして、暴力をもってその勾留時の心の傷の修復を図っていたものの、尹東柱から差し出された詩集を読むうちに文章(言葉)でもって心が癒され、杉山自身の本来の人間としての優しさを取り戻したと、役者の口から語られる回想のセリフから私は読み取りました。その一方で、囚人を生体実験の犠牲者とならずに済ませるために、敢えて暴力に訴えることでしか囚人たちを救うことができなかったことには、彼自身の胸の内では身悶えするほどの葛藤があったに違いないことは容易に想像できました。
 とは言え、この杉山の傷ついた心の変遷を辿ると、かように文章(文学)には傷ついた人の心を修復すると同時に魂をも再現させる力があると思いました。事実、尹東柱は、牢獄下という精神的にも肉体的にも過酷な状況にありながらも、文学に親しむことで己の心の平常心を保っていたのだと思いました。さらには、このことは、他の音楽や美術等の芸術にも相通じるものがあるとの思いを抱きました。それと同時に、時代背景の影響が大きいことは重々承知ではあるものの、当時としては文学や音楽等々が、無用なものとして扱われていたことは、芸術による人間の心の成長というものを無残にも無視した「悪しき戦時下の空気」であったのだと改めて思い至りました。また、その「戦時下の空気」と同じ匂いのする空気が、近年の新型コロナ禍でも文化芸術活動等が不要不急の産物と見なされた「日本中を覆いつくした新型コロナ禍の空気」と相通じるものがあるとの感覚を抱いたのは、おそらく私だけではないはずだと思いました。
 それでは、第三の切り口として「Ethics(倫理観)」といった観点から私見を述べてみたいと思います。本演劇の最後の方で真相らしきものが明かされるのですが、森岡院長がなぜ大学での地位を投げ打ってまでして福岡刑務所に赴任したかの理由が解き明かされたと私は捉えました。私個人が考えるところでは「真の倫理観」は時代を問わず不変であるべきものと定義付けています。もちろん、所詮は神でもない人間が考え作ったものですから不完全性を拭い去ることはできません。ですから、時代の変化とともに常に修正等を加え、より完全な形に近づけるようしなければならないのは言うまでもありません。ですが、その一方で、森岡院長の「倫理観」に背く行為を正当化する「医学の発展のためには生体実験もやむなし」との言葉から、その時代を支配している空気感や世相によって、「倫理観」はいとも簡単に各々の都合の良いように捻じ曲げられてしまうのかという一種の無力感のようなものも感じました。また、その森岡院長によって恣意的に偏向的なものとされた「歪んだ倫理観」は、森岡院長の表面には出さない内に秘めた飽くなき出世欲と名誉欲に起因するのは火を見るよりも明らかであるとも思いました。つまりは、本来不変であるべきと私の考える「真の倫理観」は、人間の持つ強欲さによって「偽りの倫理観」へと変容する危険性を孕んでおり、その取り扱いには公平かつ公正な手で行わなければならないとの思いを私は強くしたのです。
 最後に、閉幕前の降り注ぐ星を掴み取ろうとする演技から、私が学生時代に信州の山登りで山頂にテントを張って仰ぎ見た満天の星空の光景がまざまざと私の脳裏に走馬灯の如く蘇ってきました。そして、かつて目の当たりにした手の届く、しかも直ぐそこにあるかのような光輝く星空の情景を心の中で想い起こして幾度となく反芻しながら、何とも言えない心持で本劇の終幕を迎えることができました。

とても見応えがありました。面白かったです。

今回、海と毒薬の話しを思い出しながら見ていました。
 戦争は破壊と人体実験を容認しやすい環境を作り、皮肉にも医学を100年速めると何かの本に書いてあったのを思い出した!
 そう言う意味では今ロシアが子供達を連れ去るニュースがだいぶ前にあったが、アレから子供達は?と心配になったりする。
 それでも人は、素晴らしいと思うのはシンドラーのリストのシンドラーやアンネの日記のフランク一家を匿った人達そして今回の主人公のように人間として正しい事を貫き、助けた人が大きな偉業を成し遂げ歴史を変える事もあると言うことだ。

今例会で入会。やはり舞台は生なので圧倒されました。内容は少し重く、力が抜けませんでした。自分的には、もっと笑いのある舞台が…合っているかも…(笑)。でも、一緒に入会したIさんと楽しく観劇して楽しい時間でした。

ミステリーの要素とヒューマンドラマの要素が絡み合い、さらに、青年劇場の素晴らしい演技に、誰が殺人犯か?囚人達はどうなるのか?と、ぐいぐいとその世界観に引き込まれていきました。
 ミステリー好きとしては、看守の渡辺はだいぶ核心に近づいたのだとは思いますが、杉山のように殺されるということはなかった…ということは?本当の黒幕にはたどり着けていないのでは??
 等と色々と推理できて楽しかったです。
 1つの劇でいろいろな楽しみ方ができる劇でした。

あらすじを読んだ段階では、ユン・ドンジュが、杉山殺しの濡れ衣を着せられるのではないかと少し心配していましたが、それは杞憂に終わってまず安心しました。
 登場人物たちの、詩や音楽、文学などを通しての心の交流は、温かくもあり、また切なくもありで、心の奥底に不思議な風が吹いたような気がしました。
 また、音楽も良くて「菩提樹」、「なつかしのヴァージニア」ともに大好きな曲で癒されました。
 昨年入会させていただいて観劇した中で、いちばん心に残る演目でした。

“シライケイタの脚本/演出”、イ・ジョンミョン原作の“星をかすめる風”は翻訳されて出版されているようですが、読んではいません。
 ノー天気に楽しめば、スリルとサスペンスに富み、ぐいぐい引き込まれるもの。
 史料(事実?)に基づいているところもあるのだろうが、ミスリードに乗らされずに冷静であれば、明らかなフィクションで、戦争の悲惨さが前面に押し出されているわけでもなくて、また刑務所という隔絶された(多くの人々にとって)未知の世界での出来事との設定でよし・・。
 舞台構成では、要所、要所に主人公の詩の一篇(翻訳された日本語で)が、昇華していくかのようにちりばめられ(詩自体の解釈は非常に難しくて、頭に入らず/内容も印象も残ってはいないが)、効果的に挿入されている(唯々、雰囲気としてだけではあるが/その証拠に日本語でない/朝鮮語?のかなり長い科白/朗読も雰囲気として受け入れている)。「・・“言葉の持つ力の価値”は時代の価値観(の変遷)に惑わされない“普遍”だとする主人公の詩は、いつまでも自由を失わず、時、国を越え人々の心に届く・・」(内容が理解できないのに、本当か?)との設定での、脚本/演出家の見事さ/すばらしさに、これまた“雰囲気”として浸っている自分があった(滅多にない不思議です、これは)。
 「言葉/詩が人を変え、世界を変える」なんて、全く理解できないことであれば、あるほど、そんなものかと“刷り込み”を受け入れてしまうものらしいところも・・(これも滅多にない不思議)。
 一方で、全体を通して顧みると、素晴らしい(テクニックの?)脚本/演出だが、これにドップリと浸りきれないモヤモヤが心/頭のどこかに残っているもうひとりの自分(いつもの自分)がいる。
 思うに、このサスペンス/推理小説の原作者/原作は、主人公とした実在の人物の一部分(福岡刑務所獄中での最後の日々を送った、若き20代の詩人がいたという史実)をヒントにして、戦時中、刑務所、朝鮮族・中華民国人(戸籍上の日本人でもあるだが)の詩人の獄中死、さらに別件の九州帝国大学医学部の人体実験説を取り交ぜて・・という舞台設定で、ステレオタイプのミスリードを誘うような、嫌な構成/脚本だなぁ・・、と。
 時代小説と歴史小説の違いを、曖昧に上手く使い(戦後に刷り込まれた“歴史の自虐観”をステレオタイプに持っている観客/私たちに依存したような)、ある意味反則技の狡猾/姑息でズルイ推理小説の下に脚本/演出されているかのように感じられるからだろうか。
 (・・歴史の事実の中に埋もれたり洩れたりしている事柄に目を向け、虚構の中にもうひとつの歴史の「真実」を描きだす韓国のベストセラー作家・・、との解説があるので、余計に感じる)
 原作者は史実(歴史小説)よりも、“フィクション(時代小説)”で美しい(と勘違いさせるであろう)主人公の虚構を描きたかったのだろうか・・。そうであれば、(ヒントとした)史実の人物を“物語の主役”としての登場させることには強い違和感がある。フィクションでは実在の人物はあくまでも”さしみのつま“であるべきでは・・、”歴史小説(ノンフィクション)“ではないのだから・・。原作はあくまでフィクション。
 史実(その時代)では、主人公は朝鮮族中華民国人/日本人あり(大韓民国は存在していない)、韓国人作家のフィクション/作品だから、主人公は中国人でも北朝鮮人でも日本人でもなくて・・?ミスリードですよね。これが、モヤモヤの・・。
 因みに、コナン・ドイルが創作した“架空”の探偵/シャーロック・ホームズを主人公した推理小説は「聖書に次ぐベストセラー」とも言われている。 推理小説の女王/アガサ・クリスティは、これも“架空”の探偵エルキュール・ポアロと ミス・マープルを主人公に。 エラリー・クイーンは著者の名前だけでなく物語の名探偵の名前でもある。 これらの作家/作品は、実在を匂わすことで実話/史実ではないかとのミスリードの意図/懸念は全くない“フィクション”であり、今でも世界中で読み継がれ各国で自由に脚色され、映像化もされている。彼らのフィクションでは、歴史上の人物/史実は“物語の主役”ではなくあくまでも“さしみのつま”としての登場ある。 さて、今回の観劇で印象/心に残っているのはふたつ・・。
 この時代の、しかも刑務所の看守(杉山)の長髪/髭の容姿に強い違和感を持ったのは私だけだろうか?(所長や、看守長/看守たちの短髪との違いで、劇中の役/存在を表現したかったのか?) だとすれば、いっそのこと、彼を“主人公”として、脚本/演出すれば・・、時代/国を越えた普遍的な(正真正銘のフィクション)ものになるような気がしないでもない。(この案の採用を切に願う・・)
 もうひとつは、看護婦の“エアー・ピアノ”演奏/演劇にただただ感心して・・、その存在自体も気になり・・、刑務所の中にあって・・、杉山の真の姿を知っていて・・、それを新人看守(渡辺?)に伝える・・役目。加えて、刑務所内の“文化的”な分野も任されていて・・。で、来賓を招いての音楽会に、囚人たちの合唱を加えようとして・・。(気になる/役割・演技のファンに・・)

私にとって演劇は、どれだけ自分が共感できたり自分の心に突き刺さったりする“ものがたり”が込められているかが値打ちに関するひとつの基準。そしてそれはいくつかの印象深い言葉(台詞)によって築かれていく。本作品では、尹東柱の、看守・杉山の、看守・渡辺優一の…そして、崔致寿や看護師 岩波みどりや所長、森岡院長らについても、それぞれに際立つ“ものがたり”が描かれていて、互いに絡み合いながら、全体としてもとても強く面白い“ものがたり”になっていた。天晴れだった。
 たとえば、最後に、ある意味一番の大悪人(すべての人を騙しとおしたというところでの…)と分かる崔致寿が、早い段階で、彼を殺人犯と疑い取り調べる渡辺に、死刑を覚悟しながら「いつか戦争は終わる。この刑務所も無くなるだろう。しかし、ここで起きたことは消えない。俺の言うことを、一言一句記録すると約束しろ」「あった事をあった事として残すためだ」「お前は死んではならない」と、ほとんど恫喝に近い声で叫ぶが、それが、劇の最後で渡辺が戦犯として聴取を受ける場面で「あったことを無かったことにすることだけは、人間が決してやってはいけないことだからです」という言葉に同期していき、立場も何もかもが違うこの2人の“ものがたり”が繋がったことにうならされた。たとえば、文字を、文章を書く人間を憎んでやまなかった杉山が、所長に向かって「戦争はいつか終わります。外地から兵隊が戻ってきます。生き残った人々は、再び生きていかなければならないのです。その時に、疲れた人々の心を癒すものが必要です。詩や音楽には、その力があります。残すべきです。むやみに(本を)燃やすべきではありません」と食いさがるまでに変化することに、心が揺さぶられた。たとえば、そんな風に談判しても囚人たちの本を残らず燃やす命には最後逆らえず、震える手で火をつける杉山の絶望の姿の裏で、自由への渇望を「塀の外への凧あげ」で代償しようとしている囚人たちの歓声が聞こえるという場面、二つの哀しい“ものがたり”が、同時に対比することでより切ない“ものがたり”になったと感じていつまでの脳裏に残った。
 実在の人物 尹東柱と、架空であっても最後の場面で描かれた渡辺優一そして崔致寿の“ものがたり”の最後は劇中で一定の終結を見るが、岩波みどりは、所長は、森岡院長は…その後どうなったんだろう。想像が広がる。また、こういう作品を観る意味のひとつは「自分だったら(どうするだろう)」という想像力のトレーニング。だから、最後の場面での渡辺の抗弁「私は有罪です。何もしなかった罪です。…私は、戦争の狂気に沈黙し、罪のない者たちの悲鳴に耳を塞ぎました。死んでいく人を、見て見ぬ振りもしました。私は有罪です」がやはり強く大きく胸に残っている。これは、過去の、「いけないひとたち」の話では決して、ない。自分たちは今、そういう罪を小さくても犯してはいないか?将来、何かの折にそういった罪を絶対に犯さない強い心を持てているか?時々であっても、そういったことを考えて自分を見つめてみよう。
 ただ。私にとっての演劇の値打ちはもちろんそんな教条的なところにのみあるわけではなく、“希望のたね”がみつかること。今回そこは、尹東柱の台詞や詩の一節として発信された数々の言葉の中にたくさんちりばめられていたと思う。たとえば「絶望は人を殺しますが、苦しみは絶対に人を殺せません。…希望さえあれば、人は死にません」なんと感動的な言葉だったことか。
 本作は、私にとって、こんな素晴らしいものをたくさん授けてくれたものだったが、実は一番すごかったのは、こういった人間の大きな“ものがたり”に「推理劇」というとても魅力的な服に包んで提供してくれたことだと思っている。この題材を取り上げられた青年劇場、素晴らしい演技を見せてくれた役者の皆さんへと同時に、この話をこんな意表を突くような素晴らしい「劇」に組み立てられたシライケイタさんに盛大な拍手を送りたい。

既に観劇した人達から「感激した。」とか「素晴らしかった。」等の評判を聞き期待して観たのですが期待外れでした。理由は二つ。一つ目は主人公が美しすぎて胡散臭かったこと、この年まで生きてくると人間は複雑で善と悪の両面があり善だけの人は裏があり疑わしいと見るような寂しい人間に私自身がなってしまった為。二つ目はこの半年の間にたまたま終活的に吉村昭の『破獄』や水上勉の『その橋まで』を読み返し、戦中、戦後の刑務所の体制を再認識したばかりでこの劇の刑務所体制があまりに事実と異なり気になって劇に入り込めなかった。もちろん大切なのは作者が訴えたいことを述べるための設定だから、舞台設定は作者の意図に沿う条件にして構わないとは理解しており、これは舞台設定、道具、表現と唱えながら見ていましたが大事な要素が誤解をもとに作られているので気になり劇中に入り込めなかった。
 で、あまりに理想的なヒュウマニストとそのベースの間違いで嘘くさいと感じダメでした。
 ただ芝居として評価すれば杉本看守、渡辺看守、看護婦の演技は素晴らしかったし最後の韓国語の詩は内容もさることながら朗読の韻がとても美しかった。私は韓国人が嫌いで韓国語もその響きがとても耳障りで嫌でしたがこの朗読を聞いて認識を改めました。

いつの時代であっても、どこの国であっても、戦争は人を狂わせてしまう。日本だけじゃなく、他の国でもああいう事はあったのではないだろうか。そんな中でも人としての「心」を失わなかったわずかな人もいる。それがせめてもの救いかな、と色々考えさせられた。

開幕の杉山さんが殺されるシーンが、臨場感があり特に印象に残りました。刑務所と尹東柱の朗らかな人柄のコントラストが観ていて面白く、次第に杉山さんと文学を通して心を通わせていくストーリーが良かったです。とても楽しめました。

思っていたより面白かったです。観ていくうちにお芝居に引き込まれていました。

今回のは非常に重い。最初から最後までいい人がいい人のまま葬られて…。そんな人ばかりが登場して、見ていてキツかったです。社会派の史実に沿った内容なのでしょうが、見ていてキツイ!可哀相という言葉はここでは使わない方がいいような気もするので、適当な言葉が見つかりませんが、本当にキツい内容で胸が痛いです。
 いわれなき罪!時代が変わっても、大なり小なり、みんな経験してるし、卑屈になってしまいそうですよね。いわれなき罪に人生を翻弄されるのってほんと辛い!!

圧倒的な詩の素晴らしさに心奪われました。劇中の詩が持つ美しさが物語に説得力を与え、2人の看守の行動に深く共感できて、感動しました。

鳴門例会カーテンコール

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