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マグノリアの花たち

劇団NLT公演

鳴門市民劇場5月例会
 2022年5月26日(木)
 感想集


鳴門例会カーテンコール

今回の舞台は「アメリカ南部の美容院が舞台」くらいの前知識で参加しました。トゥルーヴィーと新人の美容師がいるところにお客のシェルビーと母親のマリンが現れる。・・・・
 ところが、登場人物の名前が覚えられない。服装が変わると誰か分からなくなる。もう年は取りたくない。年に応じた前勉強が必要なことを痛感した。

今回の5月例会は、あらすじもほどほどで、一生懸命耳をすませました。セリフが多くて、肝心なところを落とすことなく聴くという方式で臨みました。
 中身(味)は悲しかったけれど、外の衣がカリッとしていて、サクサク感のある、明るい作品に仕上がって、親子(母と娘)愛、隣人愛の物語でした。
 男性群にとっては、女性はなにもかも言葉にして伝え合う(なんとかしましく)、忙しく生きている、などと感じられたに違いないでしょうが、私は母性が強く感じられた作品だったという感想でした。

何の隠し事もない明け透けな付き合いをしている6人の女性たち、その友情、思いやりの深さに感動させられた。山本周五郎の描く人情噺にも似た世界が、30年前のアメリカ南部の田舎町にも存在したことが新鮮に思われ共感した。人間だれしも、周りの人の支え、思いやりがあれば、どんな辛いことも乗り越えられるのだと強く思った。

美容室で6人の女性が織りなすそれぞれの人生。6人6様で、重なる人生観はない。だが、6人の夫々が優しい。母と子の優しい故のすれ違い。シェルビーと母マリンの想いはどこまで行っても通じ合うのに、シェルビーの病によりお互いの気持ちのズレ。また病がゆえにシェルビーの妊娠を母マリンは喜ばない。母マリンはシェルビーを気遣う気持ちが強い。
 最後の場面では、シェルビーが母の腎臓をもらったものの、その甲斐もなく腎臓移植後亡くなる。アネルのいう「シェルビーが遠くから見守ってくれている」。人は死してなお、私たちに寄り添ってくれている。そう考えると私たちの人生はいかにあれども意義があると思う。そして、死して後も大きい意義があると思う。
 劇団NLTの皆さま、人生の糧となるお芝居をありがとうございました。

一生の長い道のりで、どちらを選ぶか決断をせまられることがある。ましてや命に関わることは、大きな課題であり、難しい。一番見失ってならないもの、大切にしなければならないものは何なのか。本当に命の重さ、尊さと向き合う舞台だった。
 ふと立ち止まって後を振り返る、そんな時間が流れました。しっかり見極めて、また明日に向かう、貴重な提言をありがとうございました。気遣ってくれる人の居ることは幸せ!実感しました。

観劇前に台本を読む機会がありました。
 初めに舞台装置の説明があり、想像して配置図を描いてみました。
 公演日に現物をみると、人物が入っての動きやすさや、観客席からの見やすさに工夫しているな、と感じる所がいっぱいでした。

日常の世界の中では、あれこれと些細な事でぶつかり合う、ごく普通の地域の人々が集う美容院。
 でも、その「ごく普通」の生活の積み重ねが、人と人の信頼を生み、お互いにかけがえのないアットホームな空間を作り出しているのだと思う。
 こういう演劇をみる時、私などは、たとえ金銭的には貧しくとも、こんな信頼し合える人間関係の和の中で日々生活して行きたいな~と思う。それこそが、その小さな集団の広がりこそが世界平和に繋がるのでは・・・と思う。けっして、武力による平和はありえないと思う。

悩みがある人や困っている人に対して「私にできることがあったら何でも言ってちょうだい」という言葉が随所に出てきました。困りごとに対して興味本位でなく「この人のために何かをしてあげたい」という心からのメッセージだと思いました。この素晴らしい交友関係は、長年積み重ねてきたコミュニケーションの賜物で、羨ましい限りです。
 1500gで生まれたシェルビーのお子さんは、今は何歳になり、体重は何gになったのかな、お父さんの子育ては大丈夫かな、祖父母の手助けが必要だななど、これからの生活や子育てのことを想像しました。きっと、町のみんな(常連客)が温かく見守ってあげることでしょう。お子さんの健やかな成長を願います。

女3人寄れば姦しいと言われるが、その言葉がぴったりの舞台であった。早口で声が大きく元気のいい6人の役者さんの言動がすばらしい雰囲気となってくる。早口すぎて聞き取りにくい場面もあったがフィナーレには、人の愛が強く感じられた。素晴らしい作品であった。

舞台が女性だけで、しかも美容院の中だけということで少し退屈な面もありました。しかし、その中に物語が色々あって、考えることも多かった。

小さな町の美容室を舞台に、6人の女性の悩みや喜び、そして絆や友情がよく描かれていたと思います。男性のことは話題の中には出てきましたが、結局誰も舞台には出てこず女性のみの舞台でした。これが、より一層女性群像を描くのに成功していたように思いました。

「何も起こらない人生をダラダラ生きるより、30分でもいい、心がワクワクするような時間が欲しい」シェルビーの言葉に心を打たれた。そして子供を産む選択をし、病のために短い一生を終えた。その母マリンも娘のために迷いなく自分の腎臓を提供した。子供を持つことは一生で一番輝けるとても大事な瞬間であるということをマリン自身も思っていたからだ。しかし、命がけで子供を産む選択をした娘を複雑な思いで見守っていたにちがいない。願いが叶うことなく、娘の死をも前向きに考えようと、命のバトンでつながっていくという表現で納得させようとした。作者の妹がモデルとなったこの物語は、母親マリンのどこにぶつけていいのか分からない感情、怒りそしてこれから前向きに生きていこうという意思がとても力強く表現されていた。残された(作者の)妹の子どもに、母親が自分の命と引き換えにこの世に送り出してくれた命であることを、どうしても知って欲しいという作者の想いが詰まった、とても切ない舞台であった。

オール女性の出演者の熱演ぶりがよく伝わってきました。私は体調がすぐれず、集中できない中での観劇だったのが残念でした。
 ストーリーは美容院の中のみで展開し、どこにでもあるような情景は身近に感じました。私の周りでも最近、元気だった人が急に病に倒れ、入院、手術で、落ち込んでいたので、つい重ねて観てしまっていました。
 最後のカーテンコールで、出演者の方が「鳴門市民劇場へようこそ!」のプラカードに感動されていたのが印象的でした。私も釣られて感動しました。市民劇場の良いところですね。

人生には、自分だけでは乗り越えられないことも、助けられて乗り越えられることが多々あります。なんでも気軽に話せる場所があって、女性同士の”つながり”がとても素敵で心強いですね。

一通り台本を読んで観劇に臨んだのですが、心療内科の薬の副作用で、まぶたが次第に重くなり、居眠りすることがしばしばでした。その上、演者が大声でセリフを言うと、却って声が割れて聞き取れないことがありました。観劇後に、もう一度台本を読み直して、ストーリーの不備を修正した次第です。

終幕近く、シェルビーの母マリン役の感情の爆発演技に圧倒される。 一方、背景に流れるカーペンターズのYesterday Once Moreやジャニス・ジョプリンのThe Roseなど、音楽に癒された劇だった。
 なぜ「マグノリアの花たち」(原題:Steel Magnolias)なのか?の説明が舞台上で無かったのが残念。深南部を象徴する花で、舞台となるルイジアナの州花でもある。また、このタイサンボクを自宅に植えていることが南部社会のステイタスシンボルでもある。その樹花が「鉄」って、どういうこと?日本人が知らないだろう風習や習俗を、ちょこっと教えて欲しかった。

「マグノリアの花たち」は、今まで市民劇場で観劇した中で一番泣かされたストーリーでした。また、女性のみ6人の舞台にも興味を持ちました。彼女たちの会話から、その家族の男性たちの人物像を想像するのは面白い体験でした。
 シェルビーは一見明るく、恵まれた家庭の何不自由ない女性に見えましたが、実は重い病気を持っており、医者からは子供を持つのは諦めなさいと言われている身体なのです。娘の身を案じる母親マリンは、シェルビーの出産に猛反対しますが、子供を持つことが私の一番の幸せだと訴えるシェルビーの強い幸せ願望に勝てず、ついには応援するようになります。
 でも、シェルビーの身体は出産の重荷に耐えられず死んでいきます。 これが幸せの代償ならきっちり支払わなきゃ、と病に立ち向かうシェルビー。シェルビーの死に迎い、持って行き所のない悲しみに打ちひしがれながらも、凛として振舞う母親マリン。
 シェルビーの強い幸せ願望とマリンの強い母親愛、二人を支える周りの女性たちの強い友情、そして父親たちの絶望感。さまざまの人の心情を思いやる時、ずっと涙が止まりませんでした。でも、きっと残った女性たちがシェルビーの息子を大切に育てていくのだろうと思わせる希望も感じました。

母をなくして5カ月の私は、クライマックス近くでのマリンの感情の波や言葉には大きく心動かされました。「命を看取ることができて、その瞬間は、本当に幸せなものだった…」という聖人君子的な言葉を吐いたその直後に、最愛の娘の死を受け入れることは到底できないと荒れ狂った態度になる。道理にかなっていなくても筋が通っていなくても、身内をなくしたときの気持ちはそういう風に無茶苦茶に行ったり来たりするものだと、実感としてとても分かって、そしてマリンがあんな風に表現してくれたことで自分の胸の内を何か昇華でき、助かる部分があると気づきました。
 どういうわけか“女同士の(女性同士だからこその?)”あのような他愛ないおしゃべりをいつもしているような付き合いがほとんど無い(というより、多分、あまり好きではない…)ので、その世界・場面は自分とは無縁のものと感じて第三者的に見ていたのですが、やはりクライマックスで、耐えがたい辛さに遭遇したマリンに対してまわりのみんなが「私たちを叩いてでも発散なさい」というようなことを言った、その励まし方には心打たれました。男女関係なく、そういう体当たり的な友情はとても素敵だし、憧れるな~と思いました。

鳴門例会カーテンコール

2022年5月26日(木)に藍住町総合文化ホールで演じられた観劇の閉幕後から今日に至るまでの私の心の呟きは「あぁぁ~ぁ…、今回は一体どんな風に展開させればいいのだろうか?」です。そして、この言葉が今回の「マグノリアの花たち」を観終わってからの私の苦悩の日々を言い表しているようにも思います。それ程までにも、今回の観劇は、私にとって全く掴みどころのない物語だったのです。それは言い換えれば、今回の観劇を観終わった後に、どんな感想文を書けばいいのか、今まで観てきた観劇では味わったことのない、悩ましい問題を投げつけられたように感じたのです。その理由は、舞台の幕が上がったと同時に、舞台から受ける印象からは今回の劇の意図やメッセージが皆目見当がつかず、途方に暮れている自分自身が居るのに気づくまでそれ程多くの時間を要しなかったとも言えます。 ところで、私の観劇を鑑賞する際の作法の一つに、可能な限りに「事前情報」を私自身の中に取り込まないようにすることが挙げられます。それは、「事前情報」というバイアスとなるフィルター越しに観劇を観ることを出来るだけ避けたいがためです。つまり、眼前で繰り広げられている演技を、先入観無しに初めて目の当たりにしたという新鮮な感覚で観たいからなのです。もちろん、どんなに拒絶しようとも、自然と目に触れ、あるいは耳に入ってくる「事前情報」はいかんともしがたい現状は、受け入れざるを得ないのも事実です。ですが、今回の「マグノリアの花たち」は、そんな「事前情報」の有無とは全く関係ない程に、私の心に食い入ってこなかったのも事実です。そんな状況下ですから、第一幕から第二幕中盤まで、私の思考回路は「ん?ん?ん?…ん?ん?ん?…」が羅列の如く頭の中で渦巻く状態でした。そして、更に悪いことに、役者から時折繰り出されるジョークが、私が放つおやじギャグ程にも笑えなくて(ただ、私の近くにいた観客の方々からは笑い声が漏れ聞こえてきましたが…)、只々時間が過ぎて行き、劇は閉幕に向かって進んで行くばかりの状況でした。しかし、そんな状況から脱することが出来たのは、劇も終盤に差し掛かったある一齣からです。 それは、シェルビーが自身の母親であるマリンに糖尿病の基礎疾患を持っている身で妊娠したことを打ち明ける場面からです。そして、その演技を皮切りに、今まで怠惰の渦に飲み込まれていた私の感性が目を覚ましたような感覚を覚えたのです。
 そこには、糖尿病を持つ女性が、妊娠やそこから至る出産が可能か否かといった避けがたい問題が演じられ、その後に糖尿病を基礎疾患に持つがゆえに、出産という大イベントが母体に影響し、腎機能不全に陥って、人工透析に移行したという不遇が描き出されていました。そのうえ困ったことに、そのシェルビーの身に更なる不幸が覆いかぶさることとなって、腎移植(機能不全に陥った自身の腎臓は体内に残し、適合する他者の腎臓を移植)という手段を講じざるを得ない事態へと病態が進展してしまうことになりました。ここまでを観るにしても、なんとも言い難い不幸の連鎖がシェルビーに襲いかかっていて、私自身も表現し難い悲しい感覚に囚われてしまいました。しかし、不幸はさらに追い打ちをかけるようにシェルビーの身に降り注ぎます。結局は、腎移植が成功裏とはならず、体調が急変した後に死亡してしまうのです。その時の、残された母親であるマリンの嘆き悲しむ姿は、これが例え観劇での演技であるとは頭ではわかっていても、こういった情景は私の生きている現実でもしばしば耳目に触れるだけに、より一層の現実味を帯びており、私自身も他人事のようには決して受け取ることが出来ませんでした。正しく、親よりも子が先に逝くことほど、親不孝なことは無いのです。 ただ、そこに一抹の救いを求めるとするならば、私自身は「引き換え」という表現は好きではないのですが、シェルビー自身の己の命との引き換えにそこに新たな生命の誕生をもたらしたことだと思いました。
 さて、ある意味掴みどころの無かった「マグノリアの花たち」ですが、この演劇に別の視点から考察を加えたいと思います。 先ずは、私事で大変恐縮なのですが、現役時代の私は糖尿病の基礎研究を行っていました。その時の糖尿病研究の経験から、シェルビーの糖尿病は、いわゆる「1型糖尿病(Type 1 diabetes mellitus)」という事は容易に察しがつきました。そして、基礎疾患に糖尿病を有している女性の場合では、妊娠や出産には大変大きなリスクが伴う事も周知していますので、マリンが異常なほどまでにシェルビーの身を心配する様を決して大袈裟だとは決めつけることは出来ないのも理解出来ました。ただ、リスクが伴うといえども、妊娠から出産に至ることが不可能なことでは無く、医師やコメディカル等のチーム医療による適切な管理下では十分可能なものです。今回の劇中の年代は80年代の米国とのことですので、その時代背景であれば米国での医療体制は十分に整っていたはずだと考えられ、糖尿病に罹患している妊婦による出産は可能であると判断出来ました。 一方、脚本が米国人の手によって書かれたものであることと、併せて演劇という特殊な空間とが相まって、演者のセリフがヒステリックな調子で大袈裟過ぎる印象を受けたのも偽らざる本音です。そこで、セリフは日本語で発していることから、もう少し日本人寄りの脚色で、大声を張り上げるセリフ回しでは無く、抑揚を幾分抑え気味に日本人的感覚に寄り添ったセリフ回しであったなら、私自身がもっと感情移入出来たのではないかと個人的には感じました。
 それでは、もう少し考察を続けたいと思います。今回の「マグノリアの花たち」で描かれた情景は、私たちが日々暮らす平凡な日常であったものと解釈しています。ということは、人生を揺るがす大イベントは、そうそう起きるはずも無く、そのことで劇の幕開けから中盤に至る過程が、凡庸な出来事で描かれていたのは、当然の帰結なのであったのだと、当初抱いていた考えを改めることに至りました。通常の演劇では、観客を非日常的な劇中に誘い込むための過度な演出や過激な演出が常套手段かと思います。ですが、この「マグノリアの花たち」は、そんな非日常ではなく、私たちの普通の暮らしの中で出会う喜びや悲しみである日常を淡々と描いたものであったのが、今まで観てきた観劇との違いと判明し、私が抱いていた今回の観劇での「異質性」の正体が理解出来ました。逆の見方をすれば、通常では「非日常」を取り扱う演劇で、今回の様に「日常」の暮らしを演じ表現することが、これ程までに困難さを伴うということが改めて分かった気がしました。
 最後に、情景を醸し出す背景音楽に、ノーランズやワム等々の、80年代洋楽好きの私にとっては堪らない選曲で、その楽曲が流れるたびに秘かに心躍る気持ちになったことを書き添えて、私の感想文を締め括りたいと思います。

ちょうど1年前、初めての藍住での例会は「泰山木の木の下で」でした。泰山木がロビーに置かれていましたが、白い大きな花が印象的でした。
 マグノリアは泰山木のことなんですね。
 登場人物は女性だけ、美容院で髪をセットしてもらいながらの愉快な世話話が延々と続き、ハッピーで楽しいストーリーかと思いきや、突然、悲しい展開に。
 シリアスなテーマであっても暗くはならず、女性同士の友情や母娘の絆が個性的な女性たち(キャラ濃い)により魅力的に伝わってきました。
 美容室のセットも細かいところまで作り込まれていて、ずっと眺めていたかった。

少子化で子供の数が減って来ているのを考えると無理してでも産んでくれるのは有難いのかも知れないけれど子供にしてみたら凄く寂しい思いをさせる事になるし、今の時代は昔程、親がいないこどでイジメは無いとは思うけど私の祖母は生まれてすぐに両親が相次いで死んで兄嫁に育てられましたが伯母が子どもの頃、祖母に口答えした時に親に口答えして親がいるから口答えが出来る!私なんか親がいないから木の股から生まれた!と言われて どんだけ悔しい思いをしたことか!というのを母から聞いた事を思い出し、どんな選択をしても親の思いと子の思いは違うし、お互いが幸せになる選択は とても難しいなと思いながら観ていました。

ひとつの舞台で、喜び、憂い、また喜び、そして、最後に予想外の哀しみ。とても、よく表現できた舞台だったと思います。

今回はまったく予習できずでの観劇だったのですが、女性だけで織りなされる活気のある明るい雰囲気の中にどことなく悲しい雰囲気がとてもうまく醸し出されていて本当に話に引き込まれていました。 改めてリアルでの観劇の良さを認識できました。

映画を観ていたので話を知っていたが、映画とは違う作品になっていた。出演者は女性のみ、美容室の中だけの会話で進み、シェルビーの死の場面すら描かれないという余分なものを最大限そぎ落とした演出は、斬新だと思った。
 映画はシェルビーが主役だったが、この作品は明らかにマリンが主役、我が子を想い案じ、揺れ動く母親の感情を表現する山﨑さんの演技に圧倒された。しかしながら、女性だけが出演し、美容院という未知の世界、そして実話に基づいているとはいえアメリカの話、そのせいかはわからないが、共感できるところは少なかった。
 マリンが髪をシャンプーするシーン、一番前の席だったので目を凝らすようにして見たが、本当に洗っているように見えた。舞台上で本物の水を使ったのか、濡れた髪は乾かせたのか、それとも何か別のからくりがあったのかとても気になった。

アメリカ南部、ルイジアナ州の小さな町の美容院、トゥルーヴィーの店で、シェルビーと母親のマリン、2人を取り巻く常連客たちのテンポの良い楽しいおしゃべりが印象的だった。そんな幸せな雰囲気をかき消すようにシェルビーを襲う病魔の影。糖尿病での妊娠・出産のリスクが大きいとわかっていても赤ちゃんが欲しかったシェルビーは、出産後に病状が悪化し糖尿病性腎症になってしまうが、そんな娘のために精一杯尽くすマリンの姿に、娘を持つ親として共感を覚えた。場面が美容院の店内のみで、シェルビーの結婚、妊娠・出産・・・という時間の流れがややわかりにくい部分もあったが、悲しい結末を迎えながらも、最後は希望に満ちた笑顔に溢れる舞台だった。

女の友情、力強さに感動。

ぐうの音も出ないほどの”Steel Magnolias” 鋼鉄の女たちは、痛快であった。

俳優の渾身の演技に圧倒され、劇の中に引き込まれ、深い感銘を受けました。

とても共感するところが色々あり、よかったです!

役者さんたちのエネルギーがすさまじいです。勇気が出てきました。

今回の市民劇場は外国物であるため、数多い高齢の観劇者にとってはあの甲高い早口の喋りはちんぷんかんぷんでした。演じている役者さんは皆さんに理解されていると思っているのでしょうか?正直イライラさせられました!しかし、storyが展開されるにつれてマグノリアに集う女たちの優しさ、思いやりの心、命を尊ぶ心が、しみじみと伝わり、この演劇を採用した陰のスタッフの方々の人間観や情熱が、ありがたく感じられました!ありがとうございました。


(マ)マリンという母親とシェルビーという娘、どうもこの二人が話の中心かな?
(グ)具体的には何が起ころうとしているの?美容院での女性たちの賑やかな会話、でも新たに登場したアネルって何者???シェルビーの病気がどうかしたの?
(ノ)脳裏にはクエスチョンマークが一杯で一幕が閉じました。
(リ)リアクションに困り、「今日のは一体どんな展開になるんかなあ。」と隣の夫と二人して、少々不安にかられました。ところがところが・・・!
(ア)あれ、あれ、あれえ!休憩を挟んでお芝居は急ピッチで進んでいきます。
(の)のんびりなんかしていられなくなりました。
(花)花嫁としてかわいくセットしてもらっていたシェルビーが翌年のクリスマスにはお母さんになるというのです。しかし、母親のマリンはそれを素直に喜べません。だって、もしも赤ちゃんを産んだら、大切な娘のシェルビーが命を落とすことになるかもしれないのですもの。親だったら誰だって悩みますよね。結局は、娘のシェルビーの必死さに押され、産むことに同意した母親のマリン。そのお陰でかわいい孫を抱くことができました!しかし、しかし、・・・
(た)たまたま糖尿病を患っていたシェルビー。赤ん坊を産んだことで腎臓に負担がかかり、人工透析でも効果が得られず、ついには母親のマリンから腎臓移植を受けることになります。それで全てはうまくいくはずだったのに・・・。
(ち)「血も涙もない」とか、「神も仏もない」とか言う表現は、こういう場面で使うのでしょうか。母親として、マリンは最上の愛を娘シェルビーに注いだし、娘シェルビーもそれを素直に喜び、受け入れたというのに・・・!
 シェルビーが亡くなってからの美容院での女同士のやり取り、胸が苦しくなりました。私だったら、母親のマリンになんと声をかけたでしょう。きっと黙って彼女を見守るだけだったでしょうねえ。だって何も言えないですもの。何を言ったって、何の慰めにもならないってわかっているから・・・。
 マグノリアの花言葉は《威厳》だそうです。マリンとシェルビー母子の命の尊厳を花で例えたのでしょうね。花は一切、出てこんかったもんなあ・・・。
 「私は私の命を生ききるぞ。急がず、慌てず、ゆっくりのんびり、そんなふうに生きていくぞ。」って、今日、また、強く思いました。
 皆さんも、一緒に、図太く、そして、できれば、周りの人と仲良く笑顔で、生きていきましょうネ❤

「マグノリアの花たち」は、しんみりとした心の交流が感じられる深い情愛劇でした。しかし、花たちは時々騒々しくてセリフが聞き取れませんでした。

今回は登場人物が日本人ではないので、名前と顔が一致しないままお芝居を観る辛さがあるのではないかと危惧していました。そこで、台本を読み合わせる輪読会で事前に学習をしました。台本を読んだのが途中までという事もあったのですが、2幕がこのような展開になるとは思わなかったので、びっくりし、山﨑さんの演技に圧倒されました。ホールの作りで舞台と客席が近いこともあり、緊迫感も凄かったです。
 また、美容室の舞台設定で、お芝居の途中でどんどん髪型が変わっていくのはびっくりしました。

鳴門例会カーテンコール

E-mailでのお問い合わせは、        鳴門市民劇場ホームページ
nrt-geki@mc.pikara.ne.jp
まで。